スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

ミケランジェロの生涯  :ロマンロラン作

彼はイタリアのフィレンツェの人であった。十二世紀から続く貴族とやらで、由緒正しい家柄であった。コレが、結局彼の中心に陣取り、ひきづり回すのだった。

ルネッサンスの風が吹くイタリアの芸術の都であったフィレンツェを彼はこよなく愛し、そこから出ることは特別な例外の時であった。

法皇や、時の皇帝に支えられて、彫刻を彫っていた。かの時代はまだ油絵が発明されず、ラファエロの様にフレスコ画を描くか、彫刻かの選択であったのか。

6メートルもの大きな大理石があって、それを、ミケランジェロに与え、何か彫れとのめいれいが、下る。彼はそこでダビデ像を作り出した。整って顔立ち、巻毛、英雄の強い肉体美、コレらの均整の取れたダビデの裸像であった。同時に、ダビンチにも同じ様な仕事が与えられ、競うことになってしまう。

裸像であったため、ラファエロは顔をしかめた。 ミケランジェロにとって、裸体とは、神を崇める手段でありシンプルにその通りであった。そしてレオナルド ダビンチや、ボッティチェリラファエロらが集められ、何処にこの巨大な像を置くのかが話し合われたのだった。裸体とは、神が創造したそのものという愛から出現したものであったのか。

ダビデンチは市民らによって壊されない様、家屋を建てて安置すべきと唱えたが、ミケランジェロは、広場のオープンスペースにどーんと飾りたい主張を曲げず、そのとおりになった。当時の都市は、治安も悪く、重要な芸術作品であっても、投石などで破壊されるのが常であったのだ。

当時の法皇などからも贔屓にされていた彼を憎んでいた人々もいた。

彼は変わり者として認識され、仕事にのめり込みすぎて 睡眠も食事も放棄した様な生活をするのが習慣化していた。

そしてなぜか、いつまでも作れずに完成しない作品も多くあったという。優柔不断。

熱情に支配されると、何日モ、ノミを降り続けた。仕事を大事にしたが、彼の心はとても疑い深く、幸運も幸せも嘆きの種になるからと言って、寄せ付けなかった。実は彼は、仕事も愛したが、より何よりも、家の事を愛し責任を感じる男でもあった。

一家の継続やら、繁栄は、彼の肩一つにかかっていたのだった。

これが彼の欠点というか、最も問題になる事案であった。常に心配し、くよくよ悩み続けるのが癖であった。この様なにんげんが、なぜあのような英雄やら、ピエタやらを作れたのか。メディチ家の墓の門のときもあれこれ心配事があったが、耐え忍ぶのみであった。作品を何組も抱えて、ヒーヒー言いながらも、ピエタも作ってしまったらしい。これはバチカンに納められている。

彼の心身には、何故か苦痛が住み付き、それにより偉大な芸術が生まれたという人もいる。矛盾に満ち満ちた人物なのである。ー私は、その秘密が知りたいと、思った一人だ。ただ、ついて行けなくなって、置き去りにされてしまった。バタくさすぎてムリっすよ。

彼が、最後まで愛した若者がいた。彼こそ神の愛を受けて美しさと気品に恵まれて生まれた青年という認識であった。熱烈な愛を感じ、心は死ぬまで彼と共にあった。事実最後の時も彼に看取ってもらっている。あまりの美しさに長けた青年は、天からのお恵みだと心からしんじてしまったミケランジェロだった。

 

フレスコ画が経験のない彼に振られた仕事であった。バチカンサン・ピエトロ寺院システィーナ礼拝堂天井壁画である。ラファエロと競わせて二人が同時にフレスコ画を描いた。足場から落下して骨折、長年の首の酷使で上を向いてしまった顔。苦しむたびに、新たな作品を抱え込み、もっと苦しくなる自分自身であった。「最後の審判」という壁画もキキ迫るものがある。

だが25歳の若いミケランジェロを見ながら、天才ラファエロも亡くなっていった。何でもかんでもダビンチとも競わされたミケランジェロ

 

面白いのは、彼の一般的ではないその性格というか、心模様である。石切場にも自ら出向き、何日もかけて、働き通し、体を壊している。

優柔不断で、決断力がない性格といわれた彼だが、作品は、誰にも考えがつかない様な奇怪さもある。無視できないものがある。

あらゆる苦難をなめた彼は、晩年は自分の魂はもう体の中にはないのだと明言。

死してなお、ミケランジェロの足跡は魂を持ち続け、我らに、何かを訴え続けている様だ!

つまり彼は死んではいない、作品の中に魂を閉じ込めたとしかかんがえられない。生き続けている、ということになるのだ。うん???

ピエタは全く逆で、奇怪さは無く、単純でただただ美しい。凡人でも理解可能な作品のひとつだ。

ダビデ像からして、理解が難しい作品ばかりである。

もちろん後世に大きな足跡を残しているとはおもうが。我々は、こういうものを通して西欧を知ったのだ。

 

芸術、特にルネサンス時代、西欧にうとい私は読み進めるのにも困難で、むずかしい美術史であった。