正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)という読み方も、はっきりとしない私だが、母の葬儀の時に唱えられた経であり、興味を持った。
母はどういう人間だったのか、まずは、はっきりしない。
それがとても、悲しいのです。私は愛されていたのか、愛されていなくても、私は母を愛していたはず。
それも既におぼろげになっていっている。幻のような存在になった母はわたしを許してくれるであろうか?
修行する僧は、まじ、寝転んで眠ってはダメである。目を閉じて座禅をしたまま眠るという。
布団に寝るべからずで、墓などに寝て、骸骨や死人を見て暮らして坐禅しなさい。お寺に泊まってはいけないよ。
野原の木の下や山の上で休み、もし、そこに小屋があっても、建物のなかで眠ってはいけないのである。
在家の人から着物を貰っても、受け取ってはいけない。衣類は三枚もあれば十分であるから。
食事は1日一回のみで、草や、木の実を食べてから、おかゆなどを食べるのである。
その後は草の実も。食べてはいけない。
人と交わることなく1人で、離れたところにいて暮らしなさい。
人と交われば、自ずと悩みが生じるものである。
欲を持つ人にはいろんな苦悩が付いて回る。
小欲の者には、心を悩ませるものがないのでよろしい。
眼蔵の全集ものは 何巻もあるので、いっきには読めない。八大は短いので、ネットで読んだ次第だ。
誰か訳してくださっていて、ありがたい。
食事は木の実、草の実など食べてから僧食を食べる。またその後は再び木の実など食べるな。
1日一食で十分。
明けても暮れても座禅をすることである。コレが最も重要か。
この様な修行する者の生活の事が書いてあるのだが、とても現代人にはできそうもない。
だが、何かワクワクとして、面白そうではないか。
真剣に、悟りの道を求めて修行する時、人間は変わってゆく。
道元は、貴族の家に生まれ、天皇の血筋を引くと言われた家の子であった。幼い時より神童、また天才として過ごし、中国に渡り勉強してきた人である。
悟りには程遠い自分である、といって、坐禅ばかりして弟子を心配させた程である。
少し、爪の垢でも煎じてみても、罰も当たらぬことである。