お父さんは大正の初期生まれだったよね。兵役も長く、老母一人残して、海外であるフィリピンや台湾に派遣されジャングルの中を歩いて行軍したと聞いている.オレンジ類がたわわに実り、空腹でくるしみ毒ムカゴを食べて死ぬ仲間もいたんだよね.そのほか、日射病とマラリアで、バッタバッタと倒れる兵隊が多かったんだよね。
そんな中で、爆弾の中を生き延びて帰国出来たのは、運命だったと、いうべきか.負傷もあったが、死ぬよりかはな.たった一人で留守を守る母と、結核に犯された弟のためにも帰らないわけにはいかない、と思ったのでは。
大きな古い家を一人で背負う羽目になって、とても大変だったであろう。帰国後、あくせくと働いて、その後大地震で実家は全壊、納屋を住居に変えて結婚して子供もできたが、いずれも女子で、後継はできなかった。
父の性格は温厚そうで、実は軍隊のような面があった。庭には大きな木があって、それを彼はどうしたのか.放置したために大きな木となってしまった。
10代のはじめ、父親が死んでしまう。他の兄弟も二十歳を待たずして一人、また一人と死んでいった。抗生物質がまだない時代では、結核に取り憑かれると、命を落としてしまうのだった。兄、姉、妹二人など四人の兄弟、そしてそれを見極めて死んでいった祖父40歳。わたしの父と父の弟が生き残り、昭和平成を生きてゆく。くしくも長男となった父は多くの家族の死亡届を次々と役所に届けていった。第二次大戦はその後10年後に起こったのだった。
ところで、暗くつらいほそい山道の様なわたしの家の過去。何とか戦争から生き延びて帰ったのには、やはり訳があったのだろう。一人待つ年老いた母は、何故だか結核にもならず、かくしゃくとした明治女であった。ただとても働き者で、昼寝しているのも見たことはなく常に、何かやっていた。紫蘇のみの飴煮や、味噌作り、醤油作り、麹作りの名人だった祖母の作品であった。また高菜、水菜の漬物は子供の私でさえ、大好物であった。
こういう一人で家を守ってきた母を見捨てて、死ねなかったのだろう.そうはいっても、死んだ兵隊は90%に上るという.本当だろうか。本当は30パーだというが。
彼は戦争の話はほとんどしないのだった.タワワに実のる美しい果物の木、花、オオトカゲ、毒蛇、巨大な木の様になる蛍の光などについてはよくはなしてくれてはいたが、人間については、マラリアと、日射病の病人の症状についてのみで、ほとんど重要なことは何一つ話すことはなかったのだった。
無口な男、面白みの全くない男、コレは可哀想であわれな男のはなしである。ただ、彼は、どこかで達観したのか、冷たい男を通し、誰とも楽しく喋ることはなく、一人静かにいることの方を意識的に選んで生きようとしていた.人は信用ならない.実にこの言葉で人生をまとめ上げていた様だ。父は教師をしていたが、
何やら、わたしにはさっぱりわからない仕事に思えた。
ただ父の死後、私は仏壇に手を合わせることを避け続けていた.手を合わせて仏壇に向かうと、なぜでも、長い彼の人生が、とてもハードなものであり全て一人で背負って歩きつづづけた元気な彼にその重さに、涙が止まらないからであった。私は家族や、夫にも、涙を見せたくはなかった。愛でもない、好きでもない、彼の受けたであろう苦労にへりくだって思うことは多かった。
困難を引き受けて黙々と歩く彼、それはよく山で仕事をしていたかれの姿と重なるのだった。
3回忌、7回忌、そんな頃にようやく、手を合わせられた私だった。
「人の価値とは、かち? とは死後に初めてわかるものだ」という言葉があるが、今はすでにもう全て終わったこと。彼らの時代はすべて終焉に向かい、完了されたのだ。
だが誰が、この様なゼツボウの時代が来ることを想像できたであろうか。新しいページがめくられ、新しい世代の台頭が始まるのだ.休む暇もなく…。
