ある日曜日のことだった。中庭でぶらぶら遊んでいた私の足の裏にちっぽけな針金が突き刺さった。。チクリ!といたかった。ヤバいこんなので、破傷風になって死んだ奴の話を学校の先生が話していたっけ。
私も破傷風になるかも、と一瞬、そんな事が、頭をよぎった。
現代では破傷風のワクチンもあるが、私がそれを受けた記憶はない。
そうだ死ぬんだ! こんな形で死んでいくんだ!さよならパパ。父は穴の開くような目で、私を見ていた。異変を感じたのか。
ただ、戦時中、父は、多くの家族の死を見てきた人であった。戦場でもだ。マラリア、日射病、結核とか。
ああ、この針金が、私の命を奪っていくのか。このちっぽけな細いものと、高慢な私とは同列の価値であったのか!
それで満足だ。はりがねよ。宇宙とは、ちょっぽけな砂つぶ一つとも自分は繋がっていたのか。嗚呼!ばかにならないなあ!
1秒ぐらいの間のことだった。
「お父さん、針金が、足に刺さっただけだよ。」ふと我に帰って照れ隠しのために、静かに喋った。
自分が体験したことを、父に悟られたくなかった。
自分は死んで無くなっても針金は残るだろう。人間の方がはやくほろびた。
つまりは、あの針金も、人間のように、錆びて、土に戻ったことだろう。
老子は無のことを考えていたという。無の中からこの世に生まれて現れたものは、結局無に帰するのである。
自分は高尚だと思っている人間さまも同様だよ。
本当は、この本を読んだわけではない。古文書などむずくてたぶん、よめはせんわ。
別の哲学的本からの引用だよ。
下の本は王弼(オウヒツ)という中国の人のほんだよ。争いや戦争ばかり起こっていた時代に、いきたひとだ。
ただ遂に、中国にはキリストとかブッダのような華々しい人はあらわれていない。現れたのかもしれないが、なぜだろう。