久々に感動の日本映画。ある日の日本のお昼の時間の一コマから、この些細な出来事から大きな出来事が生まれてゆくと言う恐怖である。小さな5歳の少女が、団地のすぐそばの河で遊んでいる。そこには綺麗な羽をした蝶が🦋飛んでいて、それを追いかけながら水辺を歩く。
団地に住む核家族の、平凡だがまずまず幸せな家庭を描く。ソレはどこにでもある平凡な家族であったのだ。河で指に小さな小さな怪我をした少女は夕ご飯を食べず、不機嫌であったー次の日から歩行が困難になり、自分で舌を噛み血だらけになっていた。しつけどころではなく、この危機的な異変に両親は慌てふためく。病院でも原因がわからず、大きな病院に回されていく。そこで少女を診察したのは野原先生という真面目な先生であった(宇野重吉)。ここでやっと病名がわかるーソレは致死率のとても高い破傷風という病気であったーここからは病の発作に翻弄される少女の姿が余りにも真に迫り幼い顔が引きつり歪み、人が苦しい時はこのようであるなと納得させられる演技と演出であった。両親(渡瀬と、十朱)は寝る事も出来ずこの病の嵐に翻弄され、精神的にも身体的にも限界ギリギリであったーふらふらと歩き、目に力無くまるでゾンビのような状態。監督の力量でか、二人ともこの役を体で受け止めて演じている。
いつまでこの様な苦痛が続くのか、永遠にこの苦しみが続くのかという予感が両親を苦しめるのだった。親にならない、もともと結婚しなければよかった、など、過去を否定しだす妻ー彼女の心は病的に偏ってゆく。
医者達も、夜中も昼も関係なしに呼ばれて、少女の病室に駆けつけた。考えられうる治療を施すのみだが、
ほとんど何も出来ずに、心臓は停止に近づいた。
この映画では子供が5才という幼さと、人間の生きる為の全力をかけた努力と意志とか、病というものの本当の正体とはなにか。人はいかに戦うのかという事がただ淡々と描かれてゆく。目には見えない病原菌が体を駆け巡る時、なす術もなくのぞみも切れてゆく。
ただ、子供と監督とはこの病にただ単純に向かい合う。この単純性こそが病に打ち勝つ力であったのだ。
誰しも苦しむ病気をしたことはあるのじゃないか、子供の頃のことが彷彿と記憶に登ってくる。幼い頃,色々な人の世話になって成長した我々。光水空気。それなくしては誰もが困難なときに挫けてしまったであろう…。
野村監督は、砂の器(松本清張) などの映画化に成功した人である。
せっkyくじみていえば、この体も両親からもらったものである。そして、まだ歩けない頃は、親達は常に注意して慈しんで育ててきたので、今があるのだろう。人は、そういう当たり前の恩のことを忘れがちであり、
横柄に慢心に満ちた大人となりうるのだ。