最初は石原の連続ドラマかいなと思っていたが、これは一本の映画であった。
ある夜習い事にいっていた女の子が行方不明になった。平凡な普通の家の子である。何故、この子が誘拐されたのか、されなければならなかったのか。見ている側もホント腹たってくるんや。
心を痛めた母親の石原には夫と共に、子供を探す毎日であった。びら配りも夫婦で毎日の様にやってどんな小さな情報も聞き逃すまいと必死になるのだった。その間もネットでバッシングがはじまりイジメの言葉がドンドン打ち出され、イイねもいっぱい付いてくるのだった。この母親が悪い、という様な何も知らない人々からのバッシングは、それでも何かの手掛かりになるやもと、どうしても毎日見てしまい、心の傷を更に深めてしまうのだった。
警察の捜査も遅々として進まず、地方のテレビ局にお願いして取材をしてもらったり、出来るだけの努力をしたが、何故か逆にバッシングや、家への投石が増えるばかりであった。文句一つ言わず、子供を探すことに突き進んでゆくしかない夫婦。そしてそれが無意味な努力で報われることもなく過ぎてゆく。見ていてもその辛さが伝わってくる映画であった。警察を装った電話がかかってきて、全てが虚しくどん底に落ち込む夫婦。
まずこの様な映画は初めてであった。流石世界のワーナー映画会社が立っている意味もそこにあるだろう。何故ならこのような悲しみ、いわゆる個人的苦悩と言うやつだ。理解されることのない個人的悩みと周囲の無関心を描くことには新しい意味があるのだと思う。現代社会の巨大なネット社会、歪んだ世界に住む私達に何ができるのか?小っぽけな個人にはなんの力もコネもなくただただ右往左往して生きてゆくしかないと言う事実。
毎日毎日、詐欺や殺人の犯罪事件は増えるばかりだ。それらを受けているのは、実はただの平凡な市民たちだ。ここで描かれる母親のようになるのは、当然と言ってもあまりあるものだ、狂気のような苦しみ、妄想のようにも見える娘を探す手掛かりを追求する心理だとて、当人には当然許されて良いものだと、言っているのである。気が触れた女、妄想に取り憑かれた女として周囲からは見られてしまっている。だがコレは大きな間違いというか、周囲の人たちとの隔たりというか、理解できぬであろう心の苦しみの叫びと言った自然現象なだけであり、彼女にとっては当たり前、そして当然な事、「当然の権利 であるが。こう言う認識に基づいた描き方は斬新である。ただ、どこにでもいるふつうの人々の珍しい痛ましい事件に遭遇した結果を発表するというもむろみでであり、そういう監督が世界で初めて
一個人の苦悩を、真実として拾い上げ、育組んだものが、この作品となったのである。誰も信じてくれず、誰も同感を表してくれなくとも彼女の考えや気持ちは嘘ではなくて真実から出たものであるのだと、堂々と映画作品の中で訴えた作品。経験のある者にしか理解されないものなのかもしれないが、尚且つあらゆる虚偽を振り払い、真実を、いや幸福を求めるための激しい闘いといったものである。この様な映画は、この世にはほぼなくて草。
共鳴点は、彼女が誰にも理解されず、そこが重要なポイントであるのだが、それにもかかわらず、狂気のような想像と行動力で、事件を解決しようとする。そうなるのは当然である。そうなるのはのは当然というべきか。どちらを向いても、同じ顔の人ばかりで、この世は皆が同じ価値観を持ち、同じ方向を向くようにできている。彼らに逆らえば、あっという間、瞬時にして抹殺あるのみ。こんな嫌な世の中にいつの間にかなってしまったのか。嫌だと、一度も拒否をすることも許されない様なとても窮屈で狭い思考の人々の中で我々は生きているのである。
ただ最後の場面では、彼女もさすがに諦めて、生きてゆくこと、生きようとすることを選んだ様に描かれている。ああ、コレで良かったのかもしれない。わたしは何度も彼女に子供のことはもうかんがえるのはやめて、自分を大切にしてもイイんだよと、伝えたかったんだ。
彼女を追い越してゆく人の流れは速く彼女はまだ不安げにポツンと立っている。大丈夫、きっと…。そう伝えてあげて。