スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

太宰治の堕落論?

1948年没、とあった。戦後3年は、生きて存在していたのだった。彼の才能にはやはり尊敬の念が今でも生ずるのである。読みやすく、楽しめる娯楽性を持った文章である。こう言う人は滅多に出てこないだろう。井伏鱒二山椒魚に感銘を受け、井伏との親交を結んだ。

東大の仏語科に入学後は、ほぼ出席はせず、卒業がなかなか出来ずに卒論の面接でも酷い態度で臨み、教授たちの顰蹙を買ってしまい、

卒業にも失敗。その後、大きな新聞社就職にも重ねて失敗をし、我ながら、虚しくなっったのか、川に飛び込んで入水自殺未遂を行なっている。やはり、彼としても現実世界は、マジのリアルであったのだろう。

誰もが自分が生きる世界や社会情勢に心身が影響を受けている。世代の子であれば、太宰とて、それにはあがらえなかったであろうと思う。あの頃としては、とても現代的な小説を組み立てて書いた天才であった太宰であることは、多くに人が、既に認めていたにも関わらず、柔らかい草の如くに弱く、また浮草の如くに根のない心といった状態が想像されるのだ。いや、実は、その真逆であったのかも知れない。心根が強過ぎたのだ。

いわゆる、ドラッグ中毒にもなってしまい、出した小説も芥川賞がとれず、苦悩する。せめて芥川賞ぐらいは、とらせてあげたかった。

何故にといえば、彼自身には多分強くイメージされていただろうが、やはり、故郷青森の生家の事が最も強く影響を与えたのではなかろうか。他所には無い大きな家、大地主としてのプライド、両親の名だたる議員とかの職歴などなどが、幾重にも彼の背中に乗っかっていたのかもしれない。それを拭おう拭おうと、必死にもがく彼のこと。もがいていたかどうかは、定かではないにしても、そうせざるを得なかったであろうことは、簡単に分かることである。自分の生まれを否定して、否定し切れずに、苦しみ、再び全てをブッチギッテ、前に進もうとする彼の人生は、極端に走らざるを得なかったのである。彼のホリの深い顔には、なぜか丁度快適とでも言うべきほどの暗い影があるが、それが我々に、語りかけてくる。