スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

ジョン万次郎   井伏鱒二全集より

この人は、高知県の鯨取りの漁師であって、中浜万次郎と言うものであった。

結構詳しく書かれていてフーンと思った。聞けばこの人はとても凄い人なのであった。

まだ15歳で捕鯨漁師になり仲間と流された。アメリカの船に助けられ、船長の家で育てられた。

教育もきちんと受けさせてもらい日本にはない高い教養も身につけたのだった。

仲間はハワイで農業に転じたり、鯨の油を詰める樽作り職人になってアメリカで暮らす者も出てきた。

日本に帰っておっかさんに会いたい、そんな一心で、恩人の船長に断りもなく国を抜け出す計画をこっそりと立てていた。

言い訳はゴールドラッシュで、カルフォルニアに金鉱を掘りにいくであった。25歳の万次郎はついに沖縄に辿り着いた。彼等は、ヘトヘトになって家の中にも入れないほどの疲労であった。外に筵を敷いて寝させられて水や食物を与えられていた。

 

日本に帰ることは死罪を意味し、その後もずっと監視されて生活をした。

アメリカに自由を置いてきてしまった、と後悔する万次郎であった。

通訳として江戸に上がることを許され、かいせい塾の先生となり、教授として生徒らを教えた。

その塾は以後、東京大学となってゆくのである。凄い人だったんだね!

ただ、ここまで運が良くて、頭も良いとあれば、誰其れからも妬まれていたと推測される。

彼をやっつけたい輩は多くいたことだろう。出る杭は打たれるの如くコレが、世の道すじであるから、仕方のないことだ。

彼の知識はアメリカで仕込まれた一流のものであった、アメリカでも彼の利発さは群を抜いていたらしく皆を驚かせた。

日本語をすっかり忘れていて最初はいろいろ苦労もあったらしい。一介の漁師であった身軽な身分だった彼には大きな困難が日本で立ちはだかって来た。

咸臨丸での渡米留学した福沢諭吉は、万次郎と一緒に渡米し、アメリカでウェブスター辞典を買ってもらい歓喜したとある。スズメ踊りをやったらしい。

井伏さん良くここまでくわしく調べたものだね!

 

 

鞆の津(とものつ)の茶会とは何ぞや、広島のどこかで行われた茶会。何やら細かく書いてあるので、ちょっと手に負えない気がする。いや読むべきか。

 

彼は、大飯(おおい)原発事故で死んだ若き社員について、死因は放射能を浴びての結果の癌であるとの外国の科学者らの見解により原発反対をいち早く唱えている。