スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

鞆の津の茶会 (とものつの-) 井伏鱒二

秀吉が老いてから高麗(コウライ)、つまり朝鮮征服の計画を立てた。家来たちは、呆気に取られて、考えの深い家来達は本当は反対していたが口には出せないことであった。秀吉は馬鹿丸出しで金の茶室まで建てて、それを西方に運び組み立て直させたりした。

何処もかしこもキンキラキンの茶室など、笑止であった。

千利休は朝鮮征伐に大反対してしまい、命を落とした。その他の大切な家来らも反対した者は処刑されたのである。千利休は本物の目利きであり、土のことも高麗の土は素晴らしいとよく知っていたのである。

寺の和尚は、その頃、教養の要であり、人望も広く、いつも秀吉の茶会には出席して監督していたようだ。

日本各地の港から多くの兵が船で出港した。およそ20万、30万人とも言われている。

家康は、戦いは良い事だと言って、皆から不信がられた。なんの策略なのか。

家康など多くの武将達が兵を連れて共に朝鮮に渡ったのである。

初めのうちは鉄砲という武器を見たことのない高麗を馬鹿にして優勢に立っていた日本軍は、その後、明国の援助の前に敗退の様子を濃くしてゆく。

京城(平壌)落城の知らせを 受けて秀吉みずから朝鮮に行くとの連絡があった。家来らは、それはあり得ないだろうと言い合った。

秀吉のことをボケ老人だと皆が思うようになっていた。特に信長亡き後、関白、征夷大将軍と位が上がるたびに、ひどくなってゆく。

秀吉は大型船を何十艘も作るように命令し、自分が大将で乗っていくつもりであったが、バタついているうちに、病死してしまう。

やっと朝鮮から兵を引き上げた日本軍であるが、明国の追跡を恐れて、気づかれぬように少人数づつに分かれて脱出することになる。そんなこんなで、

皆が恨みながらこの7年にもわたる戦いを無益であったと批判したのであった。

其の恨みは石田三成へと向かってゆくのである。

何度も様々の家来を呼んでは茶の湯を設けた秀吉であった。そこで色々な話が交わされたのであった。

お茶についてはしきたりが強くあり、侘び寂びやら、道具の良し悪しが判断できる目利きが必要であった。粋な料理の様子も描かれている。高級な濃茶や薄茶、酢のもの、酒、飯などの料理の様子もサラリと書かれている。

井伏の文章は、なかなかのもので、人柄が表れているような自然な優しさがある。教科書のも写真いりででている作家だ。

岩穴で散々食い散らして、太って出られなくなった魚。「絶対」に出られないということが分かったサンショウウオであった。「万事休す」、こう悟った山椒魚であった。まるで私の事を書いてるみたいだな。

 

「結局、山椒魚は死んだんだよ」なんて残酷なことを言う私の夫。「その言い方ひどいんじゃないの?。」「だって、死んだってことだよ。」お前、まだ言うか。

 

 

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