air Jordan エアージョーダンというナイキのバスケットシーズがあるそうだ。
これは、売れなくて弱小だったナイキが、有名なブランドになるまでの苦労話だ。
if we do right things ,we will make damn money automatically.
正しい事をすれば、お金は自らやって来るものだ。damn mony となると富ぐらいの金額になるかも。
世は、アディダス コンバースの時代であった。スポーツ選手らは競って其れらを履いた。
靴の歴史がただ一度チェンジしたのは、左右の違う靴が世に認められた時だけであった、と靴作り職人がつげた。
欧米はやはり、靴の歴史が積み上げられているのだろう。
そこに、ナイキが参入すれば、負けてしまうのは分かった事だ。
あるバスケオタクが、ナイキの社員で、彼はまだ無名のマイケルジョーダンの別格の才能を早くも見抜いたのだった。元高校バスケのコーチで、ソニーといった。マット・デイモンがやっていて、またこの俳優かということだ。
彼は、会社を説得して、ジョーダンを元にしたシューズを作ろう!といいだした。誰も賛同者は居なかったが、数人で組み、新しいバスケシューズをつくりはじめる。ジョーダンの母親はしっかり者で、しかも息子の才能をよく理解し、破産はさせない、其れどころか大きな価値のある契約だと言い切った。
その前にジョーダンは大手のアディダスや、コンバースの会社と懇談し大きな額で、契約を結ぼうとしていた。ナイキも会社の資金をほとんど注ぎ込むことになるが、後で元が帰って来ることに希望を託し大きな賭けに出た。社長などは、もう、全てを注ぎ込み心身共にパニックになっていた。ジョーダン側が靴の売り上げのレヴェニューを契約金とは別途で頼んできたのだ。こんなことは聞いたこともない一大事であった。会社の利益をジョーダン家にもっていかれてしまう。もっとパニックになる役員などであった。
だが、歴史は覆った。
その後、ナイキのエアージョーダンと、名付けられたシューズは金を稼ぎ出し、年間300万ドルだったのが、四〇億ドルにまで上がりに上がったのであった。大成功に、皆が歓喜する。コンバースはナイキの傘下になっていた。ジョーダンは空中を舞う様に
夢に賭けたナイキのキレの良い根性の据わったやり方でナイキは世界的シューズメーカーになっていった。