スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

小牧長久手の戦い  勝ち過ぎた家康

ニワカ歴史の私です。家康に人気があるのも、勝ち組である事と、長い苦難をどのように歩いてきたかを知りたいという人が多いからではと思う。現代の何でもありの乱世は、困ったものだからだ。

優秀な忍者をも使いこなして、秀吉の出方をさぐる家康であった。信長が名古屋に造った小牧城に陣取り、秀吉と睨み合いを続けるが、

10万の兵のうち、3万が岡崎争奪へと向かった。そこを翻弄する一万程の家康軍であった。土塁を夜のうちに掘り、兵達ををそこから運ぶ作戦は成功する。相手は気付かぬうちに家康の兵らにやられてしまう。

策略で勝った家康は、秀吉軍を破り勝どきをあげる。喜ぶ家臣団。

だがーそれも束の間、信長の次男の、信雄(ノブカツ)の裏切りで、転んでしまう家康であった。

それ以来家康には何とも言えない鳴かず飛ばずの時期がずっと続くのである。

ノブカツは、秀吉側についてしまい、家康に無断で領地まで与えてしまう。ひどい裏切りであった。それでも家康は、尚、秀吉のご機嫌は取らないでいた。秀吉は焦り、妹のアサヒ姫を差し出したり母親まで家康に人質として送ったのだった。ついに、家康は、秀吉に従った。

上洛して、久々に会った時、信雄は、高い位につき、家康を見下すような状態にあった。

この世のものではないほどの立派な着物をまとった信雄は、神の如く厳かな雰囲気を持っていた。家康家臣以下、皆が息を呑んだという。軍力では勝った家康だったが、政治的策略では、秀吉や信雄に遅れを取っていたのである。そこはやはり、信長の次男ということで。

その後、日本には、スペイン、ポルトガルの船が入ってきてキリスト教を布教し始めた。イギリス、オランダは、もてなされず、布教以外の商談をもっぱらにしていた。

家康は、イギリス人のウィリアム アダムス 所謂 「三浦按針」を重用し、鉄砲、大砲などの外国の武器を手に入れた。大砲は夏の陣で、大阪城を打ち抜いたのだった。

オランダ商船が打ち上げられたとき、家康に助けられたイギリス人の按針はそれ以来家康の家来として働くことになった。この男を見抜いた家康の予見眼はヤバいと思う。何としても豊臣を破りたいという執念だったかも知れぬ。

アダムスは、その頃の日本の様子を英語で書いて残したようだ…。