今更 中也って言われてもね。とちょっとふてくされてるスッポコである。 中也の詩は、没後も人気があって、良きにつけ悪しきにつけ読まれているわけだ。ケッ、読みたければ読めばいいさ。
つまり理解できるかどうかは、読む人の勝手であるし、詩の方から読者を選びにやって来る、そんな気がするのはわたしだけでしょうか。
100分名著では、中也は詩への入り口としてとっつきやすいといっていた。偉い人が言うのだから本当だろうが、それならスッポコは入り口しか知らない初心者というわけである。いや偉い人が言うのだから本当だろうが、ちょっとショックでもある。太宰治の娘の太田治子が言っていたように思う。
太田の父は、あの有名な太宰治であり、中也は太宰とも交際があったらしい。なので、まあいいだろう。
詩自体が詩人の生命を持ち 、一緒にお茶を飲む 、いっしょに道をそぞろ歩きをする。いっしょに雨の音を聞くといったように、詩は生きていて読者に寄り添い 読者の限りない孤独をいやすのである。孤独を癒してくれるので読者は有り難がるのだ。何度も何度も読み返すのだ。自分の血となり肉となるまでも。これはまさしく私の血と肉のことですが。(ウフフフ)
キリストが、このパンは我が肉であり、このぶどう酒は我が血である。と言ったとあるが、それに引っ掛けるわけでもないが。中也の家は山口県で、キリスト教であった。家は代々医者であり裕福であった。
母のフクは跡取だったので 軍医の男が婿に来て、五人の男の子を産んだ。
母のフクは、まず間違いのない血筋からこの中原家に養女として入った人だ。中原は代々の医者の家であった。フクはとても長生きしたが、婿の父親の方は、中也をとても可愛がりながら中也が12歳の時に亡くなったとある。
中也はその長男で子供の頃は神童とよばれ抜群に教養が抜きん出ていた。古い書物も読み込んでいただろう。だが、その後は文学に翻弄され一家のつら汚しとして迷惑をかけ続けることになる。故郷の家のものは外にも出にくい状態にまで追い込まれた。
東京に出た彼はその後、文壇とも一種独特の関わり方をしてゆく。田舎者でもあったのだし、プライドも凄かったのだろう。
彼は一生仕事をせずに過ごした。徹底したニート生活を送る。結婚後も知人の勧めるNHKの仕事も断っている。生活費はいつも母に無心した。
しかし彼のような詩を作ろうとするならば、ゲスな世間とは手を繋がないほうがよいだろう。
初版の「山羊の歌」の表紙文字は高村光太郎にたのみ、書いてもらったそうだ。
いや、高村も偏屈の変わり者で世俗を絶っているから、これはうなづけるし、よかった。
だが彼の詩集はあまり売れなかった。困ってしまうし、山口の家の方からも 色々文句がでるようになった。いつ、文学者としての芽がでるのかと催促されたのだろう。金を出しているのは家のものたちだから。本当に無駄な馬鹿げた人生を送っていると故郷の人々はおもったのだろう。
この頃の中也の心境は我々も忍び難い。
考えてみれば、芥川賞であっても、とるのは至難ののわざである。中也が文壇で認められるのもとても難しい関所が沢山あったのだ。彼も何とかそれに向ってそれらを突破すべく恐ろしい努力をしたであろうと思うのである。彼の詩は単純で 短いけれどね。
だが元々、自分の身を消して世の中を観察して隣人のために作って来た詩である。世間の評価どころではないものも含まれでいる、と思うのだが。
我々は彼の詩により、試作の努力により、一人の詩人と近付きになる。
それが元になり、いくつもの芽が出て、花が咲く。
スッポコの 中也に対する思い入れは凄いもんなんですよ。角川の中也全集は、まだ本箱の片隅で、じっとこちらを見ていてくれる。
彼は行間や言葉の並びにとても気を使った人だ。今までも色々な研究がされているらしいが、
まあ色々な人が研究をしても尚、捕まえられない彼の詩の言葉たちである。
中也は生前 そのことを予感し, よく分かっていたのだろう。
「俺は人が言うように放蕩息子ではない.。本当は1番の親孝行息子なんだ。」
弟が、なぜ恋人の長谷川泰子のことを書かないのか、と言うのですが、彼女は、スッポコの恋敵であるし、捻じ曲がった失恋をした中也が可哀想すぎて、書けませんわなあ。