ある朝大きな虫になってよこたわっていた青年ザムザのことは、よく知られている。私ははじめ、キモいいも虫になったザムザの事をキモい野郎だから毛虫になったんだ、しょうがないことだよねとかたずけていたのだが、65歳を超えた頃から,違う見方になった。ザムザはこのあまりに自己中の家族に毛虫にされてしまったのだ。しかも、彼は自ら毛虫になろうとしたことも読み取れる。家族のために犠牲になったのだ。
優しいザムザ、自分の稼ぎに依存して貪る家族たちから、お前は虫になれ、毒虫になれと呪いをかけられた。
現代社会でコレを避ける方法は、まず見つからない。家を出てホームレスになるのか。
この作品は、小さいが、たくさんの社会的、及んでは家族的問題を含んでいる。
家族に殺されたというが、元々はこの機械的な社会に殺されたと言っても良いのだ。
真面目に勤務するザムザは、時々医者に行っていた。心や体の不調を訴えていた。
あ、コレは、返信という映画の筋書きかもしれないが、いずれにしても同じことだ。
時々は気晴らしをしてゆっくりしたまえと、医者は言う。ザムザは几帳面で、真面目なのだ。
家族はすでに退職した父親が大きな顔で居座り、ザムザは家族のために精一杯働くが、それ以上のことを家族は彼に求めている。いつも溌剌として、優しく、利発で優秀なスーパーマンのような息子であれと、願う。コレって大きなお世話であろう。家族の糸に絡められて身動きできなくなったザムザは、哀れ、毒虫となって生存するのだった。だが家族はそんな彼をさらに殺す事を夢見る。女中に言いつけて、殺して焼いてしまえと言うのだから。
このように家族は本当は惨たらしい殺人者であり得るという事実を、カフカは告発したのである。
これ、よく発行できたね。あまりにも問題作であるのに、結局理解できる人は少なかったということか。
大きな毒虫という設定に目を奪われて、本当の意味を見つけられなかったのかもしれない。そのことをカフカは利用したとも思える。 こういう人に、ノーベル賞を与えるべきで、値しない人にあげても、世の中全然良くならない。なぜだか悪くなる一方。強盗殺人詐欺などが増えるばかりの世界へ導かれてどうなってゆくものなのか。