長野県の善光寺は、武田信玄がもともと山梨にあった善光寺を、信州にも作って同じく善光寺と名付けたらしい。
それだけ信仰の厚い古いお寺として信玄のような武将も虜になったのか。現代人であれ、突然に襲う病気や事故は回避し難いものがある。AIは人生を導いてはくれないし、不幸の溜まり場のような気持ちになる。
さてお話であるが、皮で布を洗っていたお婆さんのところに、突然牛が現れて、その晒された白い布を
ツノに引っ掛けたまま走り出した.布を取り戻そうと婆さんも走り出す.山の方の善光寺に着き牛は見えなくなり婆さんはお寺に泊まった。牛を追いかけて山道を走り日が暮れてしまったからだ。
夢の中で婆さんは、お釈迦さまに優しく諭されて、目が覚めたら布は寺の仏像に掛かっていたという。
日本最古の阿弥陀如来(アミダニョライ)が安置されている善光寺であるからして。
善光寺は宗派にも属さぬ古寺で日本最古の仏像もあるという。 また小諸市には布掛け観音とか言う巌の寺があるらしい。大阪以東にはほとんど出かける機会もない私が言うのも口はばったいことではあるが。
不思議な夢を見て心が目覚めた婆さんは、それ以後信仰を大切にして生き、幾度となく、この善光寺にお参りしたという。
このような不思議な話はやはり人生に時たま起こるものらしく、不徳の者でさえも、心を入れ替えるという
なんとも楽天的なストーリーだ。こういう単純な話が、過去の人々の心を打ってきたのだろう。
だが、曲がったことが、大手を振ってまかり通る今の世の中にただただ、気弱く金も権力もなく生きている人々は何を支えに生きてゆけば良いのか。明らかに今の世は何か釈然としない邪悪な力に覆われていると言っても間違いではなくなった.それはすでに誰も逆らうことのできない自然現象のような勢いである。
嘘ばかりついている人が、愛想よく大手を振り、真実のやからは、力がなくなってゆくという未来図をその昔、未来の世界はどうなっていくの?という弟子らの問いに、釈尊の弟子は皆に語ったのである。
釈尊は毎日食べ物をもらいに人々の所へ出掛けて行ったのだが、とても良い人に見える人々の中にも、エグイ、騙す悪さをすると言う人々が混ざっていることに言及した。弟子たちには、いつも気をつけていなさい、とアドバイスしている。 騙される時はついつい思い込みで相手を信頼してしまい、後で泣きを見る経験を何度かして見れば分かる。
また最近の突発的に起こる事件を見ても、心の拠り所を失ってしまい、自暴自棄になった人々の振る舞いに、痛み同情すら感じるこの頃である。犯人だけが強く責められることにも納得がいかない。昨今の加害者もさらには被害者側も何か闇にまみれている気がしてならない。そう思うのはまだ自由の範疇だろう。