スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

新約聖書入門   曽野綾子著

いよいよ新約聖書の番が来てしまった。ともかくも、心に残ったことを書いてみようかと思う。

弟子が、過ちを犯したものがいるが、私はかれを何度許せば良いのでしょうか、7回もですか?すると、それに応えて

エスは言った「7の10倍許しなさい。」私はすごく怒りん坊で、小さな事にも激怒するタイプなので、この言葉には驚いた。イエスはまだ若く、そして余裕に満ちていた時期でもあろう。十字架に上がる運命はわかっていたかもしれないが、束の間の自由の時期であったのか。

ユダがパリサイ人や、それに沿った武器を持った役人たちにイエスを売った行為については、曽野綾子は、ユダ自身も預かり知らぬことであったのではと述べている。ユダは他の弟子らと同じくイエスを敬愛していたのであるし。ただ、旧約にある神との預言の約束を成し上げるためにそういうことになった可能性もあるからだった。人間の予想を超えたところに、神のお考えはあるのだという。

ペテロが、イエスのことを、知らない人だと、3回言って、3回鶏が鳴くのだが、コレはイエスにあらかじめ言われていたことだったーペテロは心の底から驚愕した。自分の裏切りはすでにイエスにはわかっていたことを思い出し身をよじる。また夜明けの鶏の甲高い鳴き声は、とても強く響き渡るものだから、ペテロには鶏の声は耐えられないものだったに違い無い。コレも約束を成就するためのセレモニーの様なものであるからと、イエスは言っていた。私以外のものを今後一切キリストと呼ぶなかれ、そう彼は言った。それだけのものを背負ってしまった彼なのだが、最後には、力ない頼りない弱い人間の如くに扱われ十字架に立てられた。

ユダは、永遠の地獄の様な死に方をし、ペテロは目が覚めた様に、強くなり、その後の旅を続ける。

弟子らと一緒に旅に出ていた時は、あらゆる病人を癒し、死んだ娘、また死んだラザロという男を蘇らせている。食物も数千人分を生み与えた彼であった。この様に聴いたことも見たこともない様な不思議な奇跡を行うイエスにパリサイ、律法学者、司教らは自分達の権威が落ちていく危機感をひしひしと感じた。そしてこの不思議な男イエスを殺してしまうべきだと考えるに至った。彼は恐ろしく聡明であり、どんな難問にもかつてない様な斬新で美しい答えを出してしまう。パリサイ人らは、束になってかかれば、神の子であれ、、なんであれ、やっつけられるだろうと、群れてイエス1人に向かって行った。

群衆も結局は最後には彼を厭った。真理と究極の信仰を求める神の子イエスについてゆくだけのエネルギーを持っていない民衆は、今まで通りの慣例に従って怠惰に暮らす方を選んだ。イエスの言っていることは余りにも高度で究極的であり、普段通り生きていくには不適切だった。イエスを守るために、剣を抜いた弟子に、剣を抜けば、すなわち己も剣に倒れるといい、諌めたー最後まで師であったイエスだ。

だがイエスは、見返りは求めないし、彼等の裏切りにもどこか無頓着なところもあり、何処かはるか遠くを見つめている様なそっけない様子さえ漂わせている。全ては神のみ旨のとおりに、という神をじっと見据えたイエスは実在する人間としてはなはだ不都合な存在であっただろう。

私としても、神をそこまで信じられるかと言うと無理な様な気がする。元々クリスチャンではないのだしと。イエスが十字架の上で死した時そこにいた兵隊の長が「なるほどこの人こそ神の人であった。」といっている。人間の困難に寄り添い続けたキリストは、他の者が神の子だと言っても、信じてはならい。唯一私だけがキリストであるーこんな言葉もいっているのだ。これにはやはり意味があると思われる。他の人ではなくイエスだけが、キリストであるという事は…ーこの聖書の物語が語り続けられるためであったかもしれない。実際そうなったのだが。

 

この人の本当の罪状はなんであるのか、と聞くピラトをパリサイ人ら偉い人々はうまく丸め込み黙らせて、とうとう、イエスに罪なき罪を担わせたのであった。

十字架の上で、神よ、なぜわたしを見捨てたのですか、と必死に聞くイエス。ここでは特に、読む物の混乱が起きる箇所である。

自分で納得のうちかと思いきや、神に救いを性急に求めて来るイエス

コレは何故なのか、わかる人がいるのだろうか…。聖書では、この様に全く矛盾することが、混在されていることが多く、理解が困難だと思うのことが度々である。

「自分で復讐しないで、むしろ神の怒りにまかせなさい。復讐は私のすることである。私自身が報復する。」

さて、どのようなことがあるのかないのか。誰も預かり知らぬことであろう。