バカバカとそしられ続け、アホ マヌケのと軽蔑の言葉を投げられて生きていたフランシスコは、野原の草や、花を愛ていた。このフランシスコこそ、アッシジ教会の主となって皆の心の支えとなった人である。
なぜかと思うに、彼は裕福な毛織商人の息子であったが、全てを捨てて豪華な衣類も投げ捨て一人裸足で壊れたアッシジのもとに行き着いた.そこにはキリストの慈愛に満ちた絵が飾ってあった。
彼は依頼人でも、立派な人でもなかった.彼は最も弱く、苦しみに喘ぐ一人の人であった。そこには赤裸々に悩む一人ぼっちの男がいるだけである.彼はしかしその悩みがきっと我々庶民の悩みとちょうど合致しているということも知っていたはずである。悩む人々、打ちひしがれる人々、救いの手が来ずに、打ち捨てられた人々の絶望などを、彼自身が身を持って受けたという気がする.もっとも弱い人々に寄り添ったフランシスコであった。キリストのように慕われたフランシスコが、このような弱い心を吐露して、本当に何も持たず、真剣に祈る姿は、心細い庶民の心と重なるところとなり、強い感銘を与えるものとなっていく。人は誰も、冬は暖かく包まれていたいのだし、夏は日陰で涼しく過ごしたいと思うものだ。麻の黒い頭布付きローブ一枚の他、何も持たない彼であった。彼は見捨てられた癩病の人々を癒やし続け、今も、アッシジはハーブを揃えて病気の人々の看護に携わっているというが。
そんな彼を慕って多くの人々がアッシジに集まるようになった。弱いものほど、救われなければならない、
それは本当のことでもあり、強くお金もあり、権力もある人々は切実な救いは必要ないのであるなら。
彼の行った数々の奇跡のような行い、出来事を記録した作品となっている。この物語を信じるか、信じないかは各々の自由である.すぐに信じるのはまるで詐欺に遭いやすい老人のようで気になるが、私は、注意深く読むと意外と本当のことのように感じた。暴れる凶暴な狼を手懐けて大人しくさせたくだりは、意外と本当だったのではないかと思われるのである。フランシスコは12人の弟子を持ちあちこち旅もした。どこもかしこも、彼を一目見ようという人々でいっぱいになり,真っ直ぐに進めないのであった。
彼の弟子の中にはふしぎな奇跡をおこなう者が何人かいた。人間の替わりに魚に説教をする聖人もいたという。魚らは喜んで大群になって集まり彼の岬の上のせっきょうに聴き惚れたという。聖ヨナの話もついでにでていた。
夢のない時代,この様なファンタスティックなことがあってもいいじゃないかなと思うこの頃である。


