スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

1926年  白蟻の生活  メーテルリンク作

この作品は、ミツバチの時と違って、大変読みやすく約一週間で読み通し、この本が私を呼んだのではないかとまで感じていたのだ。だから息もしない程でなぜか必死で読みつけた事だった。

白蟻の本能知能、霊魂に至るまでその不思議な生態を、彼独自の視点から読み解くのはある意味、地味で味気ない観察日記とかではなく主観的フィクションか宇宙霊的な小説といったところである。

 

白蟻は、地上に出てこない為、滅多に遭遇しない昆虫である。アフリカなどに観られる塔のような尖った土色の巣、コレは、実はとても頑丈で、ツルハシ、電動ノコギリを持ってしても、硬い花崗岩のように硬い出来栄えでー永遠の時間を経たほどそこにある物であるらしい。

彼等は生まれてから死ぬまで、地上に出ることはないので、光を見たことはなく、もし一度でも太陽に当たると即死するらしい。であるから、地中に適応した体を持つ。彼等は巣から出ることはない。眼は無くなり、羽さえなく、プニュプニュと軟らかく白い色をしているのである。また食としては、木の根とかを探して何十メートルもトンネルを掘り進み、結局彼等はセルロースのみを食品としているのだった。

昔、地上のクロアリなどとに負けて、地中に籠った白蟻は、いつのまにか繊維のみを食べる習慣を身に付けたのである。

彼等を観察することは、最も難しいと言われている。地中で、彼等の理想の生活を仲間と営む白蟻は人間にも、匹敵する、いやそれ以上の

知能を持って生命体を維持しようと休む間も無く労働に励む働きアリは一生を卵の世話、サナギの世話、お食事の世話、掃除係、貯蓄の世話等々幾つもの仕事を黙々とこなして行く。外敵にやられた時は、あっという間に仲間と破れた入り口を塞ぐのだ。彼等に光は禁忌であるから。

宇宙のインテリジャンスとも言うべき彼らの生態は宇宙にも及び深く神秘的な話へと及んでいる。もちろん人間と同等の知能と霊性を持った生物としてみなすべきだと主張し作者は雄弁である。

蟻が神聖な霊を持っていないなどと言うことは誰が証明しうるのかと、とても必死に語るのであった。

未だかつて宗教がに人類を救ったと言う証は見当たらないとし、それは全くの事実っぽいし、では如何するのか(how to do 、what can i do)と言う問題が厳然としてたちはだかる。

人間たちが困難を越えられないでもがいているうちに、白蟻たちは自然そのものの様に人生を全うしようとしている。それは神の御心かどうか、分からないことである。そもそも自然に、その様な主観というか目的が内蔵されているとは考えにくいが、コレはあくまでも無意識の世界ではないかと、作者は言っている。

シロアリたちは神秘的な生命を紡いできたのである。人間たちが未来において、何か変化に遭ってシロアリなどのような生活をするようになるかも知れないのだとまで言っている。ただ人間が白蟻のように理路整然と根気良く団結して地下とかで生活できるかといえば、その可能性はさだかでない。高慢ちきで、欲張りで、了見の狭い人間たちは、シロアリに劣っていると言っていいだろう。

苦難の時代があれば、人間もきっとそうなるし、そうでなければ全滅するかも知れないのだと著者は警告する。

 

また、人間と宇宙についても哲学的に捉えて納得に近いものを表している。人間の霊的なものに対して

敵対するものは物質である。人間の体も物質の一つである。では霊魂はどこに位置するのかと言うような問題を投げかけるのである。霊魂の敵はやはり物質である。世界の宗教が対峙してきたのもやはり物質をいかにして克服するのかと言う問題であっただろう。仏教、キリスト教らもこの物体との格闘があった。だがそう言う人間も物体の塊ではないか。物体が物体をどうやって導くのかと。

広大な、深い心理の複雑さをシンプルにだれにでもわかるように言及する言葉の使い方には作者の熱意が感じられ、引き込まれる魅力がある。

不思議に思うのは、作者が、熱がある様な一種異様な雰囲気が漂っていて、何かとても難儀な問題が彼の身の回りに起こっていたのではと推測する。

 

白蟻の研究ではアフリカの昆虫学者の文献をコッソリ拝借して、この本を書いたとされる噂もある。その事件が多分 作者の心を大きく引き裂いたのかもしれない。由々しき事と認識したのだろう。

 

キリストの弟子たちの受難を例に出したり、シーポシュスの神話の悲劇を引き合いに出したり、何かとても悲観的である。

地球を憂い、そこにたたずむ人間たちを自らも含めて憐れんでいる。生きることの苦難はどの様に解決して行けるのかと、あらゆる観点から救いを求めている様な作者の苦悩を見るようであった。