現在、朝ドラ 、「万福」で走っているチキンラーメンの祖である、安藤百福は、発明家である。
彼を発明家と言わずして誰を発明家と呼ぶのだろう。
1958年、昭和33年といえば、スッポコの村に、まだ水道もなく、ご飯もかまどで炊いていたような戦時中と変わらず、ウロウロしている時代であった。
チキンラーメンを、まず完成品のごとく頭に浮かべられる人は誰もいなかった。両親を亡くし、
台湾の祖父に育てられた彼は、大阪でメリヤス繊維で、衣類を作り販売して成功を収める。
彼は、あくまでもそれを売る商店の人、またそれを買って着る人の側になって、全国を周り、改良を重ねた結果であった。
店の人に、どういう風にこれを売るのか、また、買った人の反応はどうかなど、細かく、尋ねて回ったのだった。
そこまで細かく徹底する商人はあまりいないだろう。だが、私は、彼の気持ちが分かる。
その情熱は、ずっと彼を鼓舞し、とうとう即席麺を作り上げることが出来たのだ。完成するまで一年をほぼ研究につぎこむ毎日であった。ほぼ血の出るような失敗の連続の実験であったが、彼は負けずに、諦めなかった
家で飼っていた鶏、妻のあげる天ぷらなど、ヒントは実はみじかなところにあったのである。
全てが手作りで始まったのだが、初めは、なかなか売れずにいた。問屋も、食品研究所も、
ラーメンなどという屋台の食品は下等なものとして、見向きされなかったのだ。
だが戦後の食糧難に、冬の日に長い長い行列を辛抱強く待つ人々は、屋台のラーメン一杯のためのものであった。
衣類もなくほぼ裸のような人々の群れが並んでラーメンを待つ姿は百福の頭に強烈に残った。
彼は心に強烈な印象が残ったことを無駄にする人間ではなかった。
かれはそれをずっと考え続けたのだろう。冬の日に湯気の出る温まる食品というのではなく、ただ人々はラーメンを食べたいと望んでいたと彼は、気がついた。
デパートの実演販売で、手応えをつかみ、すこしづつ売れ始める。
彼は問屋に無視されたので公的組織である警察、消防署、国鉄などに、卸し始め、とても喜ばれるようになった。
お湯さえあれば、すぐに出来て、鶏がらの栄養も備えた食品は、職場で重宝された。
その後、小売の店から、問屋にチキンラーメンをとにかく卸してほしいという電話が殺到し始めて、初めて問屋もチキンラーメンの重大性に気がついたのである。
卸してもおろしても、注文が絶えず、大きな大きな額へとなって行った。
百福は、工場を増やしつつ進んでいった。それでも生産が需要に追いつかないという状態であった。
あっという間に年間一億個、そして十億個のラーメンを作ることになる。
広い土地を探して、大きな工場が次々と建設されていく。
このような大企業になるとは、誰が想像できたであろうか。
百福自身は、当たり前と信じていたかもしれぬが。
百福は、いつもラーメンの仕上がりを気にして、ちゃんと出来ているか、自ら見に行くのだった。
微妙な事が、ラーメンの出来上がりを作用するからであった。
96歳までも、長生きできた百福は、後に、カップヌードルを生み出した。
カップヌードルは、浅間山荘事件で、警察隊が、雪の中で食べているのが、テレビで放映され、あの湯気の出る食べ物は何かと、テレビ局などに電話が殺到したのである。
そしてー現在に至るのである。
ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉安藤百福: 即席めんで食に革命をもたらした発明家 (ちくま評伝シリーズ“ポルトレ”)
- 作者: 筑摩書房編集部
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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