三姉妹の人生、運命を検証していた。江姫は、家康の息子秀忠と結婚していた。初は、京極家の殿様と結婚、茶々は、秀吉の側室となり秀頼を産んでいた。
三人さん様の運命を辿る姉妹。茶々はしつこい家康に辟易していたが、豊臣家の頂点として淀の君として君臨しており息子の秀頼を横につけて、家康と対峙した。
さらに茶々の度肝を抜いたことも起こる。家康が「征夷大将軍」を名乗った事である。
豊臣家の最大の象徴的なものをそっくりそのまま横取りされたようなものであった。さらには家康はその位を息子にさっさと譲り、この最高位の位は、代々徳川家が継ぎました、と天下に名乗りを挙げた事であった。
家康は夏の陣で堀を埋めるように要求し さらに本丸のみ残し他の建物はみなおちこぼせと要求。これで和平を結ぶとしたーが、それは本心ではなく、恐ろしい企みの予兆であった。とにかくプライドの高い淀君であるー何としても家康に負けるのはいやであったであろう。厳しい選択を迫られ、迷ったであろう。このような時、妹の初は何度も何度も淀のところへ赴き相談に乗り思案したのであった。また下の妹の江姫の所へも行き来して手立てを考えたのである。江姫は秀忠の妻であったため、この三姉妹の運命はお互いに拮抗しあった。
更に初は夫の京極と共に城で、それは滋賀県の琵琶湖の東岸にある城だそうだが、最強の西軍を迎え撃ち、関ヶ原に強敵が押し寄せる事をそこで防ぐという結果になった。鉄砲の球が袖を貫いても平気で炊き出しで兵たちを支え続けたのだそうだ。
そのお陰か、家康は西軍に勝利した。色々な気働き、勝利の風が彼に味方したのだった。
家康、だがなぜそこまで残酷になれたのか、知る由もない。百戦錬磨の家康は、やはりタヌキではなかったか。正々堂々とは、表向きの顔である、という事を経験で知っていたのはそうではあるが。
正々堂々と戦います!と大声で誓っておいて、裏で汚い手でもって勝てば、官軍であった。
素知らぬ顔の家康は、ついに本性を現して、大阪城を潰し、飲み込んでしまったのだった…。
ああ、そして東照宮の神として祀られた。