5月の何か気だるい午後にこの映画をみる。音楽がまたまたすばらしい。トリュフオーの映画の音楽はどれも素敵である。この不安定な緑の木の葉の木陰を歩いているような音楽はこの映画に大きな期待をもたらすものだった。
あるフランスの青年クロードは イギリスに外遊するのだったが、そこの家には美しい姉妹がいて、両方に興味を持つ。姉妹二人も、クロードを愛してしまう。もっとも良くない恋のパターンであった。
三角関係になったクロードと姉妹はゴタゴタとして愛を奪い合う。ただ妹のミリエリは、眼の病気で少し弱かった。しかしクロードはこの妹と婚約の約束をしてフランスに帰って行く。フランスに帰った途端に、約束も忘れて、女を漁るバカなクロードであった。すっかりミリエリのことなど忘れていたが、
ミリエリは彼を決して忘れてはいなかった、恋い焦がれて身の置き所がないほどになっていた。
彼への純愛は強く彼女を捉え、離すことはないのだった。若い時はこのように我と我が身でのぼせ上がるのがつねである。監督は女の心をあざやかに?あらわしてみせる。
姉のアンは活動的な女で一人パリに行って クロードに会い、自分のアトリエなどで愛し合うようになる。勿論妹には内緒である。アンは 芸術を志していて、彫刻などを手がける女であった。ロダン美術館のあるパリは、魅力的であった。
アンは他の男とも密会していた。恋多き女の姉である。
アンはとうとう妹のミリエルをパリに連れてくるが、クロードとはうまくいかず、わかれる。
その後元気だった姉のアンは、結核になり死んでしまう。人生は皮肉なものだ。
姉のいなくなったミリエリは単身でパリに行き、クロードに会う。
ふたりは7年たってやっと結ばれる。
美しいミリエリ。雪の肌のようなミリエリであった。そりゃあ、姉はもういないのだし、いいじゃないの。すきにしたら。
だが、ミリエリは、イギリスに帰り、その後牧師と結婚する。子供も出来るのだった。
ただ一人取り残された恋多き男のクロード。
姉妹を天秤にかけ 二人をズタズタに傷つけた男は既に中年の男になってしまっていた。
やはり、妹役のミリエリは美しい。だがこの人も女優という仕事を真面目にこなしただけだ。
本当はチャキチャキの都会人であろう。あんなイギリスの片田舎の姉ちゃんじゃないだろう。
クロード役は ジャンピエールレオで、トリュフォーの息子といってもよいような彼だ。
彼は、シャンとした健康な身体を持ち それを前面にだしている。強い彼、うらやましい。
健康すぎて、なんかマネキンかロボットぽいのが、嫌味といえば嫌味だ。だが自然な演技は、まだまだ生きている。台詞が無くとも彼には動く表情があった。
この映画は興行で失敗して、監督は、大きな痛手をおうのであった。自分の考えが、世の中にうけいれられなかったのだ。この自信家の監督にとって くるしい現実であった。
しかし今、この独特の感覚が、スッポコには響いた。芸術としての映画、芸術を追い求めた監督の熱意である。
女について、かなり生々しく表している方だが、本当のところは やはり女自身しかわからないものだ。
女は常に性の束縛の下にある生物である。その見返りに子供を産めるのだ。性の束縛のない女は
まあただのロボットとでもいうべきか、ピルを飲んで自由を得た女達かというわけだ。
ピルで自由になって素敵な妖精のような衣装を身につけ、ショウビジネスをしてお金を儲けるマシーンとなるのだ。