スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

秀吉 秀次事件 英雄達の選択

秀吉の晩年、秀頼という唯一無二の後継ができて、秀吉は甥っ子の秀次が邪魔になったのかもしれない。 聚楽第を与えて、関白という位も与えた秀次は、朝鮮や明を手に入れた後には、その将軍として

何人かの将軍が必要になるとして、貯めておいた後継であったのだが。

石田などの入れ知恵で、秀吉は血を分けた秀次を亡き者にする。秀頼を持ち上げる為の作戦であっただろう。だが、コレ以後より問題が起こってくる。最終的には豊臣家の滅亡へとの道筋ができてしまうのだった。聚楽第の秀次には味方として、東北の伊達政宗や最上などがいた。彼らを、謀反人として捉え蟄居させて尋問した。このような侮辱を加え、更に、最上の姫を三条河原にて処刑にふしたのだった。

また、自慢の聚楽第の建物を全て壊して葬り去ったのだ。袈裟までにくいということか。

秀次の側室30人 その子供らと共に首を刎ねるという恐ろしい暴挙に出たのであった。それを目撃した人々は恐ろしさに腰まで抜かしたとの記述があるのだが、コレは、当時の宣教師が書き残したらしい。

怒った最上は家康に嘆願して姫が処刑にされないように、秀吉におねがいしてくれと言ったのだが、惜しいことに、早馬を出したものの既に処刑後であった。この時以来最上も伊達も家康側についてゆくのだった。

最上の姫は、秀次の側室として決まったばかりで、まだ会ってもいなかったらしい。

コレらのことは多くの大名たちをおそれさせ、と豊臣家から距離を取ろうとするのだった。

また、朝鮮へ2度目の兵を送る大規模戦争によって秀吉や石田に対する離反はどんどん大きくなっていく。多くの兵を失う結果となったこの戦争では、主に食糧不足と、病気のために亡くなっていたと、またまた宣教師がアルファベットで書き残しているのだ。宣教師は見た!ということか。

一つの制裁から大きな事件となり 、関ヶ原、大阪の陣を経て豊臣家はただただ落下してゆくのだった。