セザンヌという人は、努力を重ねた人であったー画家であった。彼の絵のどこがスゴいのか、分からんことばかり、本で読んで、理屈で理解するしかないのかと、面倒なことになったと辟易していたところ、運良く本を手に入れて読んだ。その後、彼の絵は、場面を一枚そっくり切り抜いたように美しく貴重なものに見えるのが特徴で、ハッとするような色使いなのだ。 日常の風景が、切り取られて非日常の一枚に凝縮されるのか。なんか重苦しくもあるが。
ただ、赤いチョッキの少年とか、カルタをするひとたちとかは、肩から腕になるにつれ、変に伸びて、大変長い腕になりブキッチョすぎるものであった。こんな腕おかしいだろー!白いワイシャツもなぜと思われるシワが肩にかかっていた。
だが、これは少年の右肩の上から見た構図であったらしい。肩の上から見れば、大抵そうなるのが普通だ。であれば、確かにこうなるわナ!
私は、家族に、少年と同じポーズを取らせて、肩ごしに見てみた。
そう思った途端に、光沢のある少年の髪の毛や、ツヤのある頬がこちらを向いてニカッと笑ったように思えた。
そうだ彼らはなぜか絵の中で生きているのだった。セザンヌは、私が幼い時から、そばにいたような気がするのはなぜなのか。古い土蔵のような家に住んでいたからだろうか。絵が好きだった父や、姉が彼の話をしていたのをチラリと聞いたような気がする。だが父が特別芸術家だったわけではサラサラない。
だだの知識情報であったのだろう。
自然をよく観察する眼は、モンドリアンなどに受け継がれてゆく。パリから離れ、自分や自然と向き合うセザンヌ。これもまた重苦しいな。それは嫌われて当然よな。
作家ゾラと友情を結んでいたが、どんどん売れて有名になってゆくゾラに俗物臭を感じ、またセザンヌをモデルと思われる天才画家の失脚を描いた作品が発表されて以来、彼はゾラと縁を切って、ももともと気難しい奇人変人であったのだから、そういう風に暮らしたんだ。
こんな人と暮らせば、疲れっわ。彼の絵画も、見るのも疲れっわ。なんかみんなお疲れ様っす。
理屈をつけてみる絵って、セザンヌに限らず、疲れてしまうわ。