コレはパプワースという場所で、りんかい学校に出かけたシーモアという少年の話で、全て手紙文となっている。キャンプ16日目。
ゴタゴタとして読みにくいのだが、サリンジャーの最後の作品、コレ以後、彼は世間に出てこなくなったのである。
しかも、1924年は、なぜか私の母の生まれた年でもあり、因縁を感じたのじゃよ。
シーモアは、神童とも言うべき、文学少年で、年齢は7才である。だが、ほとんどの世界文学を読みこなしていて、中国哲学、インド哲学にも詳しい。またキリストを追い求める少年でもある。彼の文学に対する慧眼は鋭く、俗悪な作家を嫌っている。大概当てはまっていて正しいと思う。 でも、あまり度々キリストのことは言わない方が、スッキリとしてよかったと思うんだが。
キリストは、チョット、手に余る大物なんでね。
モーパッサン、アナトールフランス、 モンテスキュー、ゲーテ 、プルースト、セルバンテス、とほぼつづいての批評がりっぱだ。偏見と高慢以下以上、ありとあらゆる作家の作品と、その品性を問うている批評が続く。
アレキサンダー大王についても。大王の歴史の研究者を断罪している。全くそのっとおりというほか、無いかもしれない。
ただ、この少年は、何時もいつも、気を揉んでいて、自分の天才が、皆に知られない様に、とても気を揉んでいる。
この1ヶ月ほども続くキャンプには、5才の弟のバディも一緒に来ていた。この兄弟はお互い仲良かった。将来的に、この弟が、シーモアの自伝を書くことになる。やはり鼻につく兄弟ではあるね。
わざと俗悪な雑誌を取り寄せてよんでみせたり、美しい超速回転ダンスは、人前では決してしない様に注意している。
世の中の俗悪な人々が、ほぼ自分を憎んでいる、ただすれ違っただけでも憎らしそうな嫌な顔をされると考えたりもする。
これらの虐待的な経験は誰にでもあるだろうが、同感であると思うしかないほど、本当のことでもある。
シーモアは、シーモア・グラースという自分の名前に困り果ててもいる。もっとさっぱりとした、サバサバした名前ならこんな神経病みにもならずにすんだのではと、思ったり。
この手紙は家にいるパパとママに当てたものだー二人とも、舞台役者で、踊ったりもするらしい。どういう家庭か、全く想像できない。主人公は、両親も家族もとても愛していて、心を開いてコテコテと手紙を書いた。実際どんな子でも、天才でも、鈍才でも、受け入れてくれるのは、心許せる家族だろうから。
自分の人生は、多分短いのだと、既に理解している。彼は、救いから遠くにある。あるいは、近いところにいるが、なかなか手に入らない。
彼の様な人を、人々は、時々見つけ、遭遇することがある。彼らは、もぎたてのリンゴのように酸っぱい。