千石イエスとは、メディアが呼んだ名前である。
千石がイエスの方舟を作って、 美しい娘らをたくさん集めて、一つの集団を作った。
共同生活を営むオンナの集団で、家出同然に出て言った娘を家族は取り戻そうとしたが、本人ら帰るのを拒否。
千石に罪がありやなしや、と詮議された
というのも、週刊誌のコラムにコロッと騙され、さらに千石のロジカルな態度にちょっとおかしなものを感じたと言うこともある。なぜこんなにもロジカルになる必要はあるのだろうか?
千石が言うには、イエスとは原罪を持たない者で、それはエデンにいた頃のアダムもそうであった。
故に俗世の父母をもたないものであると。
群衆の中でイエスが説法をしていた時、だれかが、あなたの父と母と兄弟らがあちらで、待っているよ、と告げた。
「私の父とは誰か、
私の父は天におられる主のみである」と答えたのだ。
この本の題名はここから、引用されたのである。
結構有名な場面ではあるが、ここだけを見ると、おかしな返答だ…だが聖書全体、イエスの生涯全体を見れば、何も矛盾はないものだ。
ただ、聖書を紐解く者は、まして伝えようとする者は、木を見て森を見ずとならぬように工夫すべきだろう。
千石は、聖書研究に余念が無かった。
千石の生き方を見ると、一人の男として、オスとしての生き方が見える。
そんなことに気がつくのはワテだけであろうか。男のエゴに手を焼く妻や恋人がいかに多いことか。
それにしても、げに恐ろしきは男というものである。
権力を手に入れるためには、本心を隠して、美しいものに装いを変えるのだ。
つまり平気で 嘘をつくのだ。いかにも純粋そうな顔をして、あ、これはワテの息子のことであったわ!
彼の燃えたぎる理想と野望、なしえなかった事への強い劣等感と失望感、メディアから追われる日々など。高い理想の元に、自分をオッチャンと呼ばせたなど、何かとても印象的である。
一人でしないで、二人で行動すれば、よりよく安全に事が成せる、といって二人での行動を勧めた。
孤軍奮闘は つらいももである。
だがこれもイエスが弟子に説いたことばである。
歴史ある大きな米穀商の家に生まれ、母に滅茶苦茶に可愛がられたと言うのに、彼は家を捨ててしまったのである。 末っ子であったのだが。
この本を読んでいくと、聖書研究をしていた千石の知恵と知識の豊富さにも驚くが、見えない部分に
ワテは強く注意を引かれたのである。
ただそれがうまく書けなかったのは、いろいろな規制がかかっていることを察知しているからか、
それも、ただの危惧かもそれないが…。
ただ、読者の方には、本当に申し訳なく思っている。 敬具
トマトジャム
父とは誰か母とは誰か―「イエスの方舟」の生活と思想 (シリーズ〈家族〉 (3))
- 作者: 千石剛賢
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