スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

弁当屋のすごい経営  年商70億円

弁当だけで、1日7万個がでるというすごい会社があった。これは一体どう言う仕組みなのか、と誰でも思っちゃうよね。手作り弁当というのか、沢山の機械を導入して、あっという間に作り上げる弁当は、最後の盛り付けは、人の手でやっているらしい。ものすごく早く動くベルトコンベアに負けじと食いつく社員たちの早業は見事なものだと言う。まあ、7万食と言うものすごい数を数時間で完成するためには、何かしらすごいことが行われていると言うことだ。

創始者は、戦争で食うや食わずで、多くの人々が餓死してゆく中、生き残った1人の男である。

焼け跡で小さな店を開き、肉や魚などを売っていたが、意外にも安くて美味いと評判になってゆき、小さい食堂が出来た。美味い飯だと喜ばれ、いつしか弁当を注文される様になる。10個から50個と増えてゆく注文数。都会の片隅でコツコツと弁当を作ってきた会長が息子に会社を譲った時は弁当は一万個を越えていたーそれを今の社長がさらに増やし続けたのだ。多く注文すると、魚、肉、野菜などの材料の値段は割安となって安い値段のままの弁当は売れ行きを伸ばしていった。元々誰よりも早く朝の市場に出て行って、良い魚を手に入れると言うタイプの人ではなく、安くて美味ければよいとして、10時ぐらいにでも出かけるという大様さが、かえってよかったのかもと言われている。そのため売れ残った安めの魚を上手に料理して、安く出来た。ほかほか弁当などが世に出てきた時代の流れもあった。

これはもちろん理想の夢話と言うよりも、強力な助っ人たちが居たからではないだろうか。1人の力では決してなし得ないことである。

会長の商売の感はどこで覚えたのか、社員教育も徹底していて、高学歴などにばかり頼らず、起点のきく不良の様な若者も多く雇ったという。いざと言うときは、彼らの動きは素早く危機を乗り切るちからとなった。

会長も、社長も一度は銀行員などのサラリーマンとして生きていた時期があり、その頃のお昼事情にも通じていたーお昼に混み合うオフィス街の食堂で昼休みの時間を無駄にしてしまうことが多いことも。弁当を注文しておけば、時間が無駄にならないということも。

だから、たまご屋の弁当が12時までにはきちんとと届くということが厳守されているのだ。配達用の車も180台もあるというのも、一万箇所の事業所に配達するためには必要なのであろう。

人のために役立っているという事が弁当で実現するとともに、弁当という人間の食べ物を介して社会の深い面も見ているようで辛いなあと思う。社会の段差が大小様々に見えてくるように思われる。

乗り移ってこないのか心配になる。なんの最終目的で、こんな事業をなんでやっってるのかなあ、とふと不安にならないのかなあとおもってしまう。これってダメな方の人間の考え方なんでしょうか。