此処は中国ー菅という一大帝国をまとめた初代皇帝 (劉邦) は、元はと言えば農民の家の息子で、家の仕事はサッパリ手伝わずに、飲み屋で飲んだり遊んだりしていたそうだーだがこのダメダメ男が何故かけっこう人望熱く友人が多く取り巻きがあったそうな。
戦争に参加している間に色んなことを学び取り、どうすれば人々に好かれて軍団をまとめられるかなどなどを体験して行ったようだ。あちこち放浪したのかもしれない。
その間にも、劉邦を支える頼もしい天才軍師や、天才調達屋や、天才政治家などが彼の元に集まり、彼はいっぱしの殿様のような具合になってゆく。
生涯のライバル「項羽」と戦って中国を半分ずつ分けたのち、軍師に唆されて帰って行く項羽の後ろから襲撃をかけることを決意する。負ければ、全てを失う覚悟だ。
だが大軍の項羽軍は途中の城に逃げて籠る。アレかな 虞や虞や汝を如何せん、の歌を読む場面、四面楚歌という熟語までできて、潰してきた楚の国の人々の歌が東西南北から聞こえてきたのだ。押し寄せる歌声は劉備軍の企みであったのだが。恐怖に囚われた英雄の最後であった。
調達士というのは兵糧や武器などあらゆるものを調達する人であるが、この人も天才ががかっていて劉邦をドンと支えたのである。
劉邦には三国志で色んな逸話が残されている。桃園の誓い、などもそうだろう。
戦いの跡地もいまだに残り、整備され、観光の名所となっているようだ。切り立った崖を削って兵を置き敵と戦った凄まじい執念がうかがえる。
一方、項羽は良い家の出身だが、残酷であり、全てを切り捨ててしまう癖があった。
一方劉備は殺人は余り好まず、柔らかい態度で的にも接した。
優しい広い心の持ち主だと、思わせる達人であった。
だが、優しいだけでまさか、国が取れるものか。
この劉邦は玄徳皇帝となり初代の漢の皇帝として君臨。 以後400年近く不動であった漢。
文字を統一したり、郡 県を作ったりして統治しやすい国にしていった。
彼が発起したのはすでに45歳という とても遅い年齢であった。コレも驚きであろう。
家臣に嫌われず、家臣を楽しませる工夫をして自分を守理、守らせた。
詳しくは書物「史記」がある。
こういうところを、日本の家康も学び取っており、大いに参考にしたのではないかということであった。