スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

リア王  King Lear シェークスピア作  1604年-6年

シェークスピアの4代悲劇、ハムレットマクベス、 オセロー リア王、と並ぶ中で、最後に書かれたものらしい。

走れメロス!の様な勢いがあるね。 おっと関係ないか。

リアは現実の人間の様に肉が砕けて、心臓も、破れるのではほどの苦しみを抱いた人間なのだが。

私自身もハムレットだのマクベスだのと、読む機会はあったのだが、なぜか、この一見(おとぎ話)のような「リア王」だけは読むことはなかった。あらすじは有名で良く知っていたからだろうか。

 

庶子である息子が謀反を起こしたことで、リアの国はあっという間に混乱し王も一緒に崩壊してゆく様が描かれる。

王は老人だから、彼の財産はすべて、子が管理してゆくべきだ。リアから彼の財産を残らず奪ってやる。そう心に誓って、悪意に満ちた策略を実行する庶子である。「老人になった親の財産を奪い自分のものにする」

コレが彼の考えの中心だが、まさにコレは現代的なもので、老人詐欺とでもいいし、大規模詐欺集団でもいいし、現代を暗示する出来事、挑戦である。現代の、ニート、引きこもりの予言書でもあろう。

 

ただこれには自己のアイデンティティの不完全さというリスクが伴う。常に人間として不完全で自己さえも偽りでまぎらしているにすぎない。彼らは不幸中の幸福とも呼べる雨の日の陽だまりの様な不思議な世界だ。そう思うしかない。、庶子エドマンドの悲劇。

 

黒澤明監督の、「乱」を観たが、ほぼピンと来なかった。それから数年いや10年以上経つかもだが、

自分の不遇な人生を恨み、同じような境遇のリア王を精読するに至った。

黒澤も、苦心しただろう。「リア王」は、コレをつかむには風を捉えるようなもの、または、噂を堰き止めるようなもの。または、自ら狂人の冠を自らの頭上に載せられる人に限るだろう。

シェークスピアは、精密な構造を信条としたマクベスを書いた人であるから、簡単にまとめれば良いものを何故か、リア王においてはそれだけでは済まないものを持ち上げてきているのだ。とくに厭世的になっていた時期だったとも言われる。

 

いや、コレは辛かった。ただの読者の私さえも、この悲劇に飲み込まれて、危うく気がふれてしまうのではとの危機を感じ、薄寒く、夏でもあり腕にじんわり汗が滲んだ。

この泥だらけのもつれた人間悲劇は、過去1700年代では「ハッピーエンド版」が盛んに上演されていたらしい。なにがそこまでこの劇を難しくしているのか、進みすぎたシェークスピアに、誰もついてゆけなかったのか?

ページを開いてすぐに、早くもリア王を耄碌していると周囲が見なすのだが、早い展開だ。

気の毒な王様!でもなぜ、そこまでリアを嫌うのか?そしてリアをますます孤独な老人へと追い遣ってゆくのか。納得いきませんね。

王様は、本当の気のふれた人間となって、髪を振り乱して嵐の荒野を彷徨い、夜になってもそれは終わらない。彼には家がないのだから。

 

二人の忠臣らも、哀れな醜い乞食や狂人などに変装し、こっそりと王を護ろうと身辺に近付いて見守る。

やがて、庶子の悪巧みはバレてゆき、刺されて死ぬのである。そのほかの関係者も

最後は、誰も彼も、王も、娘たち、忠臣の伯爵も、その息子も、また娘の夫も、バッサバッサと、なくなるこの無常世界。人間であるが故に、絶望し、その中で、また希望をつかみという泥沼の闘い。

終幕になるにつれ、ぐつぐつと煮詰まったような音すら聞こえてくるような状態になる。

終わりはあっさりと、先ほどまで末娘コーディーリアの死骸を抱きしめていたリア王が、わずかなる家来に見守られてことキレるのである。

コチラも、やっとこの真っ黒な現場から離れられて、一息つくのであった。

 

コレを最後に、私も、休眠期に入いる予定を決めた。リア王を読む前から、コレを読み終わったら

そうしようと思っていたのだが。

最後に発表した「アテネのタイモン」も、自分の落ち度とは言っても、所謂社会、国と世間を恨みつつ、孤島で死を選ぶ大富豪の結末を描いたとても洗練された劇だと私は賞賛を惜しまない者である。