まあ、なんでも映画作りは大変な作業だろうと思う。曲は、武満徹で、なんとかおさまったが。
後の配役は、チャランポランの寄せ集め、稽古もできていないまま始まってしまった。よく練られた構想が楽しい黒沢の作品としては、あまりにも、寂しいものだ。
とは言っても、わたし自身も、リア王をまともに読んではいない。三人の娘がいたリア王は、末娘の真実の愛に気が付かず、つぎつぎと欺かれてゆくらしい。
小さな綻びが、家族崩壊に繋がってゆく、これは、どの家庭でも、起こりうる悲劇でもある。喜劇ともみえる。
まともなものがバカを見る様な世の中であるのは、過去から続いている様だが、これには真実腹の立つことが多い。
三権分立の癒着というべきか…。ポリスは、もはや、政治のスパイでもあり、もう誰も守れないであろう。
息子やら親族に次々裏切られた主人公の殿は、
その様な腹立たしいやりとりが、行われ続けたためか、主人公秀虎は、頭がおかしくなって、広い野原を彷徨い続けるのだった。
これが哀れな殿の末期の状態であり、ただ、これも誰にでもありそうな気がするのである。
ああ、この世には、何も得るものは無く、よって、何も得ることはできないのだ、とお経にはある。