「釈迦」などとすごい題名、でも寂聴さんだしね。まあ許そう。
結構シビアなことが書いてあるのかと思ったが、そうでもなかった。
アーナンダという釈迦の弟子の語りで進行する物語であり、釈迦はすでに入滅まじかであった。
釈迦のもとには元妻や息子、育ての親など、親族も帰依していた。許されない女性の帰依も認められ、尼寺もできた。だが、釈迦は女性が入ってきたことで、仏教は500年早く滅びるのだと何度も言っている。女性の魔生は深く恐ろしいものだからだ。
インドでも一番の美女と言える遊女も釈迦を慕ってやって来た。弟子のアーナンダは彼女の顔を美しすぎて正視できないのだった。
釈迦は、美しい妻のヤソーダラーや、息子のラーフラをも捨て、城も捨て、国も捨てた。
ラーフラとは、「障害」という意味で、釈迦が出家するのにつまづきになるだろうという意味であった。
母の居ないお城は空虚であったし、父王を憎んでいたかもしれない。お腹の大きな妻を王は里帰りさせなかったからだ。それがもとで母は亡くなったのかもしれないのだから。
釈迦は幼い時から、天才を現し、4歳の時の家庭教師は、失神してしまった。
王は釈迦に「シッダッタ」と名づけ、これは「達成」という意味であった。快楽的な生活をさせ、変なもの思いグセを治そうと努めた。
故郷の国が責められた時も、三度は、軍隊を止めたのだが 4度目は通した。あの国は業が深く、滅びるのが必定と言い放った。
釈迦の着ている服は、人がお尻をふいたぼろぬのを縫い合わせた物で糞掃衣(フンゾウエ)と言った。元妻も、尼になってからは、同じようにボロを着たそうだ。
僧の食事は1日1食と決まっている。また、お金に触ってはいけないのだ。
商売もしてはならぬ。農業もしてはならぬ。ただ布施によってのみ生かされる生活である。
じっと座禅していれば、あまり食わなくてもいいのかもしれぬが、現代の人のようにあちこち金儲けで飛び廻れば、肉なども食べねば体が持たぬだろう。
釈迦の教えは、あまねく苦しむ人の心に寄り添うものだった。
「自分を、つまらない者、だめな者と卑下するものではない。あなたの存在は、必要であり、自分で自分を許してやるのだ。」と言っているように、スッポコには思えた。自分ほどバカな人間はいないと思っている人はたくさんいるだろうから。自分を大切にしてやる事は実は自分は仏性を持っていると気づくことでもある。
80歳になった釈迦は、枯れ木のように瘦せおとろえ、衰弱して居たが、布教の旅をやめなかった。
一番頼りにして居た弟子のサーリプッタ(舎利子)も、帰依した元妻も既に亡くなっていた。
アーナンダは、侍者として、あらん限りを尽くすがどうしても旅をやめなかった。まさにさすらいの旅である。とうとうある村で、チュンダという男のもてなしの食事を食べ、腹を壊し苦しんだが、それでもまだ旅をやめず、とうとうクシナーラーというところについた。それはとてもうらぶれた村であった。アーナンダは、こんな寂しい村で入滅されるのかと、悔しがった。
しかし、そこで、釈迦は、入滅し涅槃に入った。「私の残した法を守り、精進してくれ」と、言い残して。サヨウナラ。それは本当の意味の別れであった。
彼は二度と再び、輪廻によって生まれ変わることもない。それはそれで、恐ろしいことのように感じる。ウジ虫になってでもこの世に帰りたい、と思うのが人情ではないのか。
彼は、この世を生き切った人であったというべきか。
オムニバすのように女性の物語を、中心に書いてあり、とっつきやすくて読みやすいとおもう。
仏教の意味もおしつけがましくないように、盛り込んだ作品になっている。