丹羽という文学の大作家を父に持った圭子は、自らファーザーコンプレックスと名乗っているぐらい
父を愛し、尊敬していたのである。そんな彼が80才を境に何かちょっとしたおかしい振る舞いがおこるようになる。初めは皆がが、こんなことはよくあることだと見逃して気にもしていなかったのだが、
だんだんと本当の意味でおかしな行動が見られ とうとうアルツハイマーと診断された。このころは、そのような病名もごく専門医しか知られていなかったはずなのに、さすが東京であるとおもった。
まだ介護制度もない時代で、圭子は父のめんどうをみることになった。
ただ圭子は、主人の仕事で、アメリカなどの海外生活が続いており、外国で娘も生まれている。
全くのお嬢様育ちの彼女は慣れぬ外国でよく頑張っていた。お嬢様とファザコンから、なんとか抜け出せたのもこの主人あってのことであろう。
だが、丹羽の妻、すなわち圭子の母親も血管性の脳梗塞などを患い、パーキンソンと診断された。
母は、良妻賢母の鏡のようなきちんとした人であったのに、人格がガラリと変わってしまい、グチと嫌味ばかりの嫌なおばあさんになってしまっていた。
これには、よしこも流石に参ってしまったようだ。ありとあらゆる罵詈雑言を投げ掛けるババアに、手を焼いていた。それでも親を恨んではならぬと自分に言い聞かせるのでストレスは溜まるばかり。
これは昔のスッポコを見るようで、本当に親のボケにはかなわないのである。
丹羽の方は、もう、自分がえらい作家だったことも忘れていた。時々、妻と面会しても、この人は誰なのというばかりであった。
ここまでボケてしまえば、もう苦しみはないであろう。大きな赤ちゃんと同じである。
丹羽文雄はお寺の出身であったがあとを継ぐことはなかった。なぜなら、彼の母は、彼が12歳の頃かに家出してしまったのである。そのような家は、もう故郷として機能していなかったのだろう。
彼の心は千々に乱れ、苦々しいものがこみあげたことであろう。
このような過去は、長じてからアルツハイマーのような病を引き起こす原因だったのではないかと推理できる。
母親の方も若い時に片親を失っている。大きな人生を揺さぶるような変化を経験したことは、のちに発病したパーキンソンの基礎になっていると思う。
私の母も若い時に、大きな悲劇的な経験をしていた。そんなことからこのような意見を言ったのである。
丹羽は、文学でそれを乗り越えようとしたのかもしれない。
圭子は、外国と日本とを移動しながら介護をつづけていた。だがそれは明らかに大きな負担であったにちがいない。お手伝いさんらの手を借りながら、こつこつと地味な努力を重ねていたのである。
とうとう2人とも施設に入ったのだが、母の面会の日は、いつも辛く心身にこたえるのだった。
そのため酒を飲むようになる。素面では母に会えないほど、母はキツイ言葉をなげかけてくるのであるから。
親の介護というのはたいていこのようにこんがらがって、もつれた情のやりとりになり、けっきょく、子も親も傷つくようなことが多いのだ。
圭子の酒も、結構体に害があり、母の言葉も、圭子の心を突き刺していったのだった。
他の誰でもない自分を産み育ててくれた親に言われるのは、とても辛いことだ。。避けようがないではないか。恨みようもないではないか。相手はボケた親である。その自己中心的な発言も病気故と言われてはねえ。スッポコのところと似ているのでよく分かる場面である。
この著者の本田圭子は、2001年に65才で、この世を去る。
父の丹羽文雄は2005年に101才でこの世を去る。
この本を書くようにと圭子に勧めたのは瀬戸内寂聴である。寂聴はやはり文壇の丹羽と親交があり、
娘の圭子のことも知っていたから、そういうことも実現したのであった。