若い頃は、自分スッポコが死んだら、臓器はそっくり他人のために使って欲しいと、思っていたものだが、
その後、脳死についてあまりにいろいろな意見がなされたものだから、何が何だか分からなくなってしまった。何故こんなに話がこんがらがってしまったのか、いまではもう分からないが、ほんとうは、一本に絞るべきではないのか。寂聴は、まだそんなことに、右往左往して悩んでいるが、95歳である。
たくさんの情報に流される現代人らしいと言えばそうである。
このエッセイは、80歳ぐらいから始まっている。戦争の恐ろしさも体験した人で、結婚してすぐに夫は出征し、乳飲み子と残ってしまったり、母親が、爆弾で亡くなったりと、ひどいめにあっている。
どれもこれも本人の起こした事ではなく、不可抗力、権力の暴力を受けたのである。
たくさんの本を書き、お勉強もされたのだ。また僧侶としての修行や研究も、彼女を高めてきた。ただ、長生きした分は、多くの友人らが、既に亡くなってしまった。自分一人長生きしてなんとなく辛いであろう。思い出の人々を、偲んで書いている。
スッポコは、youtube で、ときどき悩みの説法などをみている。人の悩みほど面白いものはない。
亭主のこと、子供のこと、どれも悲惨で取り返しのできぬ事柄に対して寂聴はよく聞いてやっていた。
あまり偉ぶったことを言わずに普通のおばさんの悩み回答にきこえるのだが、良いのか悪いのか、よく分からない。決めつけたことを言わないから良いとしよう。こうあるべきというのは、いちばんよくないでな。
聞いてもらった人は天下の寂聴に聞いていただいたと思い、少しは気が晴れるのだと思う。
僧侶であるからして、権力、金などとは別の世界で、安心して話せる人、場所でないといけない。
今の世の中、公平に何にごとでも打ち明けられる場所というのは、もうないのである。
なにかしら忖度に関する事に見舞われるという事だ。
たくさんの作家を実際に知っていた寂聴はやはり、日本語について、特に古典を読んできた人であるから
言葉のセンスにも鋭いと思う。
私自身も、国語力がないのだが、日本は今本当の意味の国語力がなくなってきているとテレビを見ていて、思う。NHKアナウンサーの読む言葉が、まず、おかしげである。こんな原稿書く人がNHKにいると思うと残念だ。
敬語がだめだめである。言葉のセンスをもっと研ぎ澄ませて欲しい。
私などは、あまりに怒りすぎて、困ったことが多すぎて、書く気にもなれないことがおおい。
結局書くと自分が恐ろしい目にあいそうなので、書かないのである。まあ、くだらないことである。
悲しい事だから書かないのである。
この後は、寂聴の書いた「釈迦」を読む予定である。
また、彼女の友人の丹羽文雄の「厭がらせの年齢」という、老人の認知症の話も読む予定。まだ認知症という認識のない頃に出た作品であるからと、寂聴は言っている。