またしても、リルケの本を出して読んでいる。ついでに、老子も読んだり。
ただ老子の本は、中国の思想の本棚にあったように思ったが、今はどこに置いているのか分からずじまい。ネットから少し読んだ。
リルケは、弱い者、か細く震えて苦しんでいる人たちの味方かなと思った。
パリの街で、地面のように暮らし、何を食べて生きているのかさえ、マルテにはサッパリ分からない。人々は、冬をも恐れる気配もない。自分とはまるで違う生活をしている彼らに、マルテは大きく
差異を感じ戸惑い、追求をしてゆくが、やはり途中ではぐらかされてしまうのだった。
マルテの手記は、どうしてもくぐらねばならない門のようなものか。
今の私の苦しみを、ほんの少しでも理解して、取り除いてくれるのは彼の書いた神経質なほどの細かい描写である。
地球上の本当に変わり種の人間たちを描き出すとダントツ一番のリルケであることだ!
時間の流れや、地球の動きを足音に感じて、更に地軸の傾きにも気がついて、とうとう歩けなくなった男の話。
この話にはオマケがついていて、彼は、揺れずに、さっさと歩く人々を見て、とても感心してしまう癖がついたというのだ。
痛めつけられた人間は、健康な自由な人びとを見ると、当たり前のことなのに、とても感心してしまうのだ。ついこの間まで、自分もその仲間であったのにだ。地球の動きは感じない鈍臭い私ではあるが、自分だけが知っている真実が何かしらあった。そいう場合、周囲は、さらに鈍感で、誰1人信じてくれないものである。
フランスの王様が、誰よりも貧乏になって健康も何もかも奪われ、癩病と、精神病の最悪の苦しみを受ける話。これは、怖い話だが、とても人間らしく描かれているため、そんなに怖くはないのだ。腐っても鯛という見本の話かな?
ただ各人が、それぞれ孤独であり、自分の独特すぎる人生に苦心惨憺して取り組んでいるという話である。
そこには基本的に、神への信仰が打ち立てられている。神との真摯なというか人間からの一方的な対話の形がある。
リルケは、パリに出て、そこにたむろする人々に触れ、悲惨な状況に圧倒され、胸を痛めていた。四方八方、大都会のパリは病み疲れ果てたもののように見えるのだ。それに何とか自分も近寄ろうとするリルケであったがそこにはなぜか厚い壁が挟まっているのを感じる。
奇しくも、同じ頃、同じ場所で、ジャンコクトーが住んでいて、名声と共に栄耀栄華の生活をやっていた。だが、彼は身を持ち崩して行った。その時初めて、リルケの本を読み、大きな慰めを得ることができたと、語ったという。
その通りで、マルテの手記は、いろいろな不幸な境遇の人々の心に、寄り添い、顔を寄せ、じっと耳を傾けてくれる、そんな存在になりうるものだ。
私自身は、ああ、自分だけが、苦しんでいるのではない。とても特殊なケースではあるが、何とか、ぶらさがっているわけだから。ただ、それさえも怪しくなる時もあるが…。
辛く苦しい人生、トンネルの先は見えない。世界が失せて、灰色の景色が目に映る。フランスの王様は、あれからどうしたのか。
そこで、老子先生の言葉も思い出した。
真実の言葉は美しく聞こえない。嘘の言葉は美しく響く。まさにこの通り、いくら真実を話しても、周囲は信じないものである。
このような問題をまるで世間は同盟を組んでいるかのように、口に出さないのであった。学校でも教えはしない。
ガリレオガリレイは、真実を言ったために投獄され、裁判にかけられたりしたのだ。まさしく、あまりに聞きなれないことは、
誰も耳を傾けてくれず、否定されるものである。