ある地方大学の宗教哲学の教授が、といっても京大哲学科出身なのだが、テレビで、話していた。といってもアーカイブスっぽいものだったが。
大学を受けるときに、医学部も考えたと。皆に先生と呼ばれ、名誉と財を手に入れる生き方。だが名誉とかお金だけが、この世で大切とはどうしても考えられなかった。
自分は農家の出だからな、足が地についた科が良いと考えたが、いつのまにか、宗教哲学の道へと入っていった。
世の中の人は、子供のためとか、お金のためとかのために、働いている。
こういうのを功利主義といって仏教でも禁止している。
お金に触ることも、野菜を作ることも禁じているから。
何故なら、これらも功利主義であろう。合理的に自分たちが得をするのだ。
子供にお弁当を作ってあげる、そう言うのも、生きがいになると、結局自分の為なのであるし。
人生、人のためといって結局自分が生きるために、他人を利用している場面が多すぎる。
また、すでに社会自体が功利主義に傾き動いている。
青年たちが集まって、天国と地獄について述べあった、昔の若き時代。
西本先生という、真宗の偉い人を呼んで講演会があったときのころであった。西本先生が真宗だろうというのは、ワテのうろ覚えである。
西本先生というのは大先生だったらしい。
どうも答えが出ないで、皆がムズムズしてきたので、町で有名な仏教おじさんをよびだして、問うたところ、
「地獄はあると思うものに、地獄はなし、地獄などないと言うものに地獄ははあり。」
といって、スタスタ帰っていったそうだ。
ワテもこれを聞いて、そうだよなあ!おもった。
どんぴしゃりのお答えである。
バチなど当たらぬといって悪い事をする奴は、やっぱりだめなんじゃないんですか?
西洋の考え方のニヒリズムは、全てが虚しいといった徹底的なものである。
では、人間は無から生まれ、無へと帰ってゆくのか。たかだか50年や、100年ほどしか生きられぬ人間の存在は無であるのか。、まさか!そんな事があるはずも無い。
そう熱く語る教授である。
教授は多分真宗の宗派である。
自分も一度はニヒリズムに浸り、人生の意味を探った。人は一度ニヒリズムに浸らなければならんのだろうと。
そこから生まれ変わった自分は強い自己であった。そして信仰へと向かっていった。
親鸞の教えは、良いものは救われる、悪いものも救われる。悪い者、地獄に堕ちている者を救うと言う事が大切なのだ、といっていたように思うが、そこは、ワテはよく覚えていなくてごめんなさい。
この放送の2日前ぐらいに、北海道の大地震が起こっていた。
「生きるということは」という問いを真摯に考えねばならぬ時代が来ようとしているかのようだ。
インフラの問題も含めすべてが混沌としてしまった。
表面だけを取り繕たメンディングだけではダメなような気がするのだが。
彼は話の終わりに
今はすでに歳をとって、孤独である。孤独は恐ろしい。
誰も孤独に耐えられる者はいないほどだ。つらいものである。
芭蕉の句を引き合いに出して、孤独から逃げないことを心に刻んで、1日を過ごしている。
このような事を話しながら、撮影は終わっていったようだ。
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