水爆の光、及び灰を受けた漁船の第五福龍丸は、1954年ビキニ環礁近くにいて、信じられない光と、巨大なキノコ雲を見たのだった。その後、多量の灰が数十分も降り注いだ。
その船は静岡の焼津港から出た遠洋の船であり、23人の者が乗っていた。
船員達は、光を受けて真っ黒に日焼けしたようになり、顔はまるで炭を塗ったようであった。
皆が急いで焼津に帰ったのだが、港の人々は心配し、全員を病院に連れて行った。
それは市、県、国、米国、の問題として大きく新聞に載り、放射能の灰を受けた船員達に、同情の声が高まった。彼らの体には大きな放射線量が入っていて、結局、東大病院に送られた。
焼津では大騒動で、関係した人々には波紋が広がっていた。自分はあの船のマグロを食べたが大丈夫か、船に入ってしまったが大丈夫か、船員とキスしたが大丈夫か と皆が放射能を恐ろしがった。
このようなことは、福島とよく似ているではないか。見えぬ敵と闘う人間たち。
体にケロイドが出てきた者もいた。
国を挙げての調査と治療が始まっていた。
被爆国として、今回のビキニ環礁での出来事は、大問題となり社会を動かしていた。
国は米国と話しあう場所を幾度か設けた。
船長(宇野重吉)は、船員達と共に闘病をするが、結局最後には苦しんで死んでしまう。
病院全体が悲しむ臨終であった。
彼は、家族に手紙を書く。「顔色もよく、体調がよくなっている。肝臓の痛みもなくなった。もうすぐ家に帰れそうだ。」
葬儀の時はたくさんの人が心から祈っていた。
彼は一介の漁師であったが焼津の人達から慕われていたようだ。皆が家族のように彼のことを見守っていたようだ。
ウネウネとうねる深い海、この海には本当に無限の恐ろしさがあるのだ。
小学校低学年でも理解できる内容であるから、こういう史実に基づいた映画を子供らにみせてやるべきだろう。
ただ米国の代表者は「平和、自由、二度とこのようなことが起きぬように」
米国の反応は、やはり表面的なものだったと、思われる。
同じようなことが何度でも繰り返される。
繰り返されてはならない破壊兵器は、我々の近くにおかれている。
進藤は、何と言っても広島生まれの人でもあり、映画「原爆の子」もとっている。
ビキニ環礁、この事件を、後世に残しておくべきものとして映画にした。
ウネウネと滑る黒い海は ワテには苦手である。何かがニューっと出てきて手を掴んで、海の底に連れて行かれると思えるのだった。