ヤンチャでバカな少年だった秋山徳蔵(佐藤健)は思い立ったら必死になり、喧嘩っ早く、だがすぐに飽きてポイと辞めてしまう悪い性格のガキ大将であった。
家族も心配するような将来性のない奴であった。養子になって結婚する(黒木華)も、その家も飛び出してしまう。
しかし熱中すると、とんでもないことをやるという強みがあった。体も丈夫であった。
徳蔵の兄(鈴木亮平)は、学問が良くできて、東京の大学で弁護士にでもなろうと教授(武田鉄矢)のもとで働いていた。
そんな兄を頼って、東京に家出した彼のために兄はひと肌もふた肌も脱ぐことになる。
華族会館(旧鹿鳴館)で、まず西洋料理など習う。もっと知りたいという欲望が独走して
、破門され、次は精養軒(岩倉具視キモ入れの店、政府要人多数)で腕を磨いた。しかしここでも、問題を起こし、クビになり、しばらくは大衆食堂で働くも
郷里に帰ってくる。
それを親が許すはずもない。それなのに、突然にフランスに行くからお金を出して欲しいと親に頼むのだった。
結核に侵されて東京から帰郷していた兄は、彼のために、お金を出してやって欲しいと親に頼むのだった。
自分の命は、もうわずかしかない、体の丈夫な徳蔵はきっとやり遂げて立派な料理人になるはずと、親を説得する。
徳蔵は飽きっぽいが、好きな事ならとことんのめり込むという性格であったため、兄は徳蔵のそこに賭けた。
そのおかげで、彼はフランスの日本領事館経由で、立派な料理屋に勤めた。みんな兄の助力でできたことであった。
本当に運のいい男だ。徳蔵は兄の命にかえた願いを忘れることなく、フランスで料理に励んでいった。
日本人、イエローモンキー、そんな誹りを受けながら、いや、日本人など人間とも思われていないという方が正しかっただろう時代であったはず。彼は、フランス語の辞書を片手に懸命に頑張った。
いやとんでもない差別の時代であり、日本など殆どフランスでは認められていないような時代であった。現代でも、イエローモンキーであることに代わりはないとフランス在住の日本人からきいたことがある。
彼の腕はかなりに上がっていて、他を寄せ付けない仕事ぶりであった。
明治という時代にフランスに渡り、西欧の料理を勉強するなど、本当に珍しいことであったに違いない。はじめのレストランで、腕を認められ、ホテルリッツという名門に入るまでになった。
兄の言ったことは本当のことであった。
フランス語も通訳なしでやり繰りし、料理も会得していき、数年経った。
ある日突然、領事館から呼び出された。
またとんでもない失敗をしたのかもしれないと、いってみると、通告されたのは、
日本に帰って、皇居に入り、天皇のお食事や、レセプションのための料理をつくるようにとの通告
であった。
その頃、外国の立派なお客の口に合うような料理が作れる料理人はほとんどいない時代であった。
しかも偽物の料理ではいけない。本物の、真心のこもった料理が出来る者ということである。
日本の福井県の郷里に帰った徳蔵は、あまりの出世に、父(杉本哲太)はあんぐりと口を開けているようなものだった。本当は心から喜んでいるのだった。
結核で痩せ衰えた兄もどんなにか喜び自分の事のように、弟の 徳蔵が立派になったことを喜んで、もう思い残すこともないといったふうであった。
兄は、大正天皇の即位の料理のメニュウを枕元で聴きながら、目を閉じた。
この兄の役を鈴木亮平が強い「せごどん」のイメージと真逆の役を迫真の演技でやっていた。
昭和天皇のレセプションもものすごいものであった。二千人もの料理を厨房長の彼が考え、料理人の皆が一斉に動きやり遂げたのであった。
彼の信条は「真心」であった。 食べる人のために心と体を尽くして料理をつくることである。
もともと味覚や臭覚の鋭かった彼は微妙な違いも逃さないのである。
それからも、身を尽くして仕事に励み精進していく徳蔵であった。
西洋料理はハーブが効いていて美味しい。わても習ってみたいが、いかんせん、こんな田舎で竹やぶのタケノコ掘りに行ったり、ふきのとうをとったりとひどくのんびりしていても、それがまたいろいろ忙しいのだ。
だが徳蔵の好物もやはり生まれ育った福井の郷土料理であったという。