主人公の名は、アンドレイで、これはアンドレイ タルコフスキーと同じ名前である。職業は詩人だ。
え?詩人ってどんな事をするの?と戸惑うわたし。こんなあやふやな職業ってやっぱあるのですね。
この映画は大体において詩的映像の連続であり、監督の美的感覚のかたまりを受け取る私たち、と言った具合だ。
ノスタルジアって、何に対してのノスタルジアなのか、よく分からずじまいだった。
最初は目を凝らして見ていたつもりだったが途中で晩御飯の仕度にかかってしまい、ダメだった。
巨大なロウソクの燭台や、マリア様の像などの出て来る場面にも、特別の意味はなく、いや、意味はあるのだろうが、マリア様のスカートの中からたくさんの小鳥が出て来るのとかは、ホドロフスキーもおなじことをやってて、あれって思った。ただ小鳥は「希望」の象徴であるのだろう。
感じ方次第であるのだ。美しい心象風景は、ただ、自然に素直に受け取って、個々で解釈すればいいだけの事だ。
詩人アンドレイには、エウジェニアという小難しい名前の女がマネージャーのようについてきていた。
だが中々2人の関係は進展せず、女は苛立っていた。胸をはだけて誘惑して見せるのだが、何故だか彼は一向に心が向かない。
その女マネージャーは、特別に美しく、豊かに波打つ金髪の持ち主であった。スタイルも、歩き方も、ファッションモデルのようにできていた。監督のお気に入りの女であろう。
旅の途中で、ドミニコという気の変なおじさんに会う。
「ろうそくの火を絶やさずに、水を渡れ」という謎の言葉をアンドレイに言っていた。
これは「世界が救済されるためだ。」とも言っていた。何はともあれ、アンドレイは、それを実行しようと心に決めたのだった。
また、ドミニコは水だらけの廃墟を出て、ローマへと向かった。
変なおじさんは、ローマで演説を始めるつもりだった。
彼の演説の内容は、一冊の本がかけるような、東西の哲学を噛み砕いたようなすばらしいものだったのだ!まあ、タルコフスキーの渾身の言葉(遺書)とでも言えそうなものか。
彼はローマのある広場で、演説を始めて、自ら燃えて死んで行く。
その風景は、ただ美しく、また激しい最後であった。
石の大階段のあるところに、演説を聞きに来た人々が集まる。
その人びとの配置の美しさには、息を飲むものがあった。
ドミニコが燃えている時に。
だがこの映画はなにもかもが水だらけであり、霧、雨、雪、雨垂れ、泉、川、池、水溜り、大きな温泉などがでてくる。
全ての根源は「水」であるといっているかのように。
監督の作品ソラリスにも、豊かな川がでてくる。よく、川のほとりで、主人公は想いに沈むのだった。
ノスタルジアの最後は、主人公は倒れて死んでしまったようだが、懐かしい子供の頃の故郷が、現れて主人公は自宅の前庭の水溜りの前に坐していたのだった。
だがこの最後の部分のバックに居並ぶ長方形の建物はトスカーナのものではないだろうか?
こんな不愉快なまちがいというか、ありえないミスマッチがあるのだろうか?
この監督の言わんとするところは、まあまあ、納得できる。汚れきったこの世界に対しての
詩人からの警鐘である。と共に美しい自然や幼少の頃の純な思い出が監督の心を支えていた事が
この映画の核である。
だが世界の足取りは前に前にと、止まらない。無力なものはその下に踏みにじられるということを
言っているのだろうが、人間的な主題である。小手先の進歩が人間を押さえつけ、争いに興じさせている。
タルコフスキーはこの映画を撮り終えて、パリに亡命したのであった。
だが、その三年後には、彼はこの世から立ち去って行く。ノスタルジーには、そのことがわかっていたような趣があり、胸が痛む。
さいごのけしきには トスカーナの景色がバックにあり、本人は故郷にいるというとても変わった
景色になっている。