スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

ある川の両岸に道があった。

道というのは土手道であるが、それが数十メートル続きどこかで途切れていた。

今日はここを歩くぞ!そう決めて56才の私は子供のように息をした。

だが、途中まで行くと、ボロボロに錆びた鉄の橋があり、しかも幅が50センチもないため車も渡れない。

何のために渡れぬ橋などがかかっているのか。何に使っていたのか?大根でも干していたのか?

もう少し進んで行くとと、青と白のペンキで塗った小屋が道脇にたっている。何となくホッとするのだが、

もっと先へ進もうとすると、ピタリと足が止まる。

なぜか生臭い風が吹いてくる。何だこりゃ?何で空気が生臭いんだ?自分の勘違いなんじゃないのか?

立ち止まって暫し考えた。勘違いではないな。

動物の屠殺場があった場所だとか聞いたことがある。

それともあの深い葦の茂みの中に殺人者が隠れているとか?死体が隠されているとか?

まさか、まさかね。この辺りは鉄炮町という町があったところだと、郷土史に書いてあった。

鉄砲で殺したのか。江戸時代のことなのに?

 

さあ、行け、今度こそぶっちぎって、向こうまでいくんだ!行くんだ、スッポコ!

なんども励ますも、もう足がいうことを聞かずにすくみ切っている。

それからも二、三回挑戦したが いつも小屋のところで、足がいうことを聞かず、立ち止まってしまうのだった。

あれはなにがあったんだろうて。

 

 

小屋入門2 (自然暮らしの本)

小屋入門2 (自然暮らしの本)

 

 

 

 

アラン幸福論 アラン1868年ー1951年まで。

このお硬い文章から言って、とてもついて行けぬと、十代の時は思ったものだ。

ただ最近ちょっと気になって、また本箱から出して読み始めた。

なるほど、これではちょっと固すぎる椅子のようだ。固すぎるベッドか、布団か、木靴かと言った感じだ。

きっと彼の家を訪問しても玄関で門前払いか、入ってもお茶も出ない気がする。

 

行動、情念、気分、このような人間の持つパーツについての所見をのべている。

ある昼下がり、一杯のお茶を友にチェアーに座って、アランの本を開く、これが余裕のある人の生活というものだといわんばかりの語り口調だ。品の良い人々に読み継がれる本なのだろう。一つ一つが短くて、ダイジェストの週間コラムのようにも思えるとことも少し俗っぽいとは思うが。とにかくクダケていないのがいいのだろう。良い生地のスーツを着たまま読む本というか(笑)

 

 

 

人間は、苦しみが好きだということだ。全てが整って与えられた幸福は、嬉しくないものだ。

苦しんで得た成果に幸福感を見出すのだ。

世の蒐集家に、全てを与えたとして 彼は嬉しくないのだ。集めるという行動を従わない蒐集家というものはいないからだ。

戦争は、退屈を持て余した上層部の人間がするのだと。

人間退屈になると、悪いことを目論み行動に移す。このことを繰り返し言っている。

彼は大きな戦争を二度も経験してきたのだからな。

 

 

また一番驚いたのは、戦争と平和についての考えであった。

やれやれ驚いた。これもむずかしい。

平和をもたらすのは「正義」だ、というのだ。

最近、「正義」などという言葉も、正義自体も見たことがない。

ほぼ死語に近いであろう。

誰も正義の意味を知らないであろう。

 

彼の名はエミールオーギュスト シャルティエ   というフランス名だが、アランというのは

ペンネームだそうだ。

1925年に世に出た書物で、アラン57才のときである。少し遅いようだが、彼はミケランジェロを例に出して彼は死ぬまで学習というか、学ぶ姿勢をもちつづけた人だった。学ぶのに遅すぎる、ということはないなどと尊敬を隠さない。

彼は哲学者、モラリスト,教育者として活躍した。内容の中にはピンとこないものも多くあるが、

彼ほど全き中立的な立場を固く守った作家もいないはずだ。

彼の独特な論調は役に立つこともあるだろう。

 

彼の本を読むと,冷静な気持ちになり人間はまず冷静であるべきだというようなきもちになる。

彼は物知りで,口調はあくまでも堅苦しく,決して羽目を外さない人である。

彼の言っている言葉は本当だろうか、嘘だろうか。嘘であれば、彼は稀代の大嘘つきであろう。

 

全く面白味のない感じで木片を食べているようなかんじもあるのだが,それにはそれなりの価値があると思う。木は飲めば漢方にもなるし、食べても虫歯にもならない。大抵の作家には虫歯になるような甘味が入れてある。

 

ぐつぐつ煮えていないで、まあ、ちょっとクールダウンしなさいよというサインである。

 

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくは明日、昨日のきみとデートする 三木孝浩監督 2016年

これがわかる人は、あたまの冴えた人というべきだろう。

ワテにはよくわからず、結局メモ用紙に図を描いたりして大騒ぎした。

福士蒼汰小松菜奈、のカップルと、友人の東出昌大が、出演している。

若いふたりは恋人同士になるが、取り立ててどうということのない二人であった。

福祉のナチュラルな演技が良かったとか、若手の小松菜奈って誰?ぐらいの感想である。

いろんなところでデートをするが、なぜか女は、これから起こることを知っている。それが不思議で心に引っかかる福士であった。

彼が5才の時、水に溺れた彼を助けたのは30才の彼女であった。彼女は未来からやってきたのだね。

彼女が5才の時、35才の福士が彼女の命を救う。

35才のあなたは本当に素敵な男性になっていたのよ。

この女何を言っているんだか。

 

このように、ちょっと変な設定に戸惑ったりしてみたのだ。

時間の流れを逆にしてのSFストーリーである。

わざと分かりにくくして、人の注意を引いたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

下校班、バイバイ交差点で1980ねん

学校の帰り道は 友達と一緒。お地蔵さんの前で、別れる。バイバーイ。バイバーイ。彼らの家は少し遠くにあるんだな。そのその分かれ道には、山茶花の木と、ススキとお地蔵さんがあって赤いよだれかけをしていた。そのお地蔵さんがなんか怖かった。なぜかゾッとするんだな

そこからの道は、ススキが生い茂り道が見えぬほど生い茂っている。どうして友達は、あんなところから来るんだろう、といつも不思議だった。

そこはキツネやタヌキが、騙すために、ススキの陰で待っているんだとも思った。

道無き道を進む友達。「ここまででいいよ、あんたは帰りなさい」といつも言われた。

そちらには二つの部落があって、それぞれの家に帰って行くのだった。

私は必ずいつかこの道を通って、あっち側に行って見る。  

そう決心するわてであった。小学校1、二年生のころ。

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