スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

存在の耐えられない軽さ the unbearable lightness of being 1988年 フィリップ カウフマン監督

実はこれアメリカ映画だというから驚きだ。耐えられない映画の一つだ。不倫して、また不倫して、また不倫する。ただそれだけのお話だ。美しくも、楽しくも、オシャレでもない、人のフリン見て何が楽しいかな。原作者のミランクンデラは、チェコの人でノーベル賞をもらった作家だ。えー、知らなかった。

映画が、何か変な方向に向かっていく、大げさな宣伝で売れれば良いいいという映画となって内容の薄い作品になっている。映像など上手く人物を捉えているのに、なぜ内容がこんなものになったのか、私には知る由もない。もともとの原作が良く無いためなのか。

 

いやー、耐えられないという意味がよく分かったった。ちょっと哲学的な題名に皆が騙されたのね。

 

テレザとサビーナという二人の女がいる。恋人は天才外科医のトマーシュという男。なかなか精悍な顔つきの良い男、でも男だって顔じゃないからね。

でもこの男の自信はすごいんだ。自分は女にモテる。俺にかかれば女なんか総ナメだよという感じが漲っていて、ちょっと笑えるぐらいだ。良い男を必死に演ずるのも疲れるだろう。仕事とはいえ。

相手はジュリエット  ビノッッシュで、この人はショコラ(2000年)や、イングリッシュペイシエントにでている。どちらもくだらない映画で、イングリッシュは意味さえ不明だったし、ショコラは本当にがまんできないほど、だめであった。しかしもう一度見て検討することもできるが。

ビノッシュ人気で作ったためだろう。「存在の」は、30年も前の映画である。

 

ビノッシュのカマトトぶりにはすごいものがある。ショコラの時もそうだったが、このカマトトぶりが何をか言わんやの様相である。全編を通す彼女のかわい子ちゃんぶった演技に驚くだろう。立っている姿や足の格好が9才ぐらいの何も知らない童女に見える。多分、監督がロリコンなのかもしれないね。

なぜって、わたしも、若い頃、いつも童女ぶりっ子していた記憶があり、今思うと百害あって一利なしだ。

耐えられないでは、その童女の様な表情が不倫の最中にも花咲くのだ。裸の最中も恥じらいながら童女顔でカメラ目線。バカヤロウ!と、張り倒して、踏みつけたくなる様なカマトトぶりである。カマトトはなかなか治る癖ではないので、歳を重ねたいまでもきっとそうかもしれない。憧れのトマーシュと結婚までしたのに、そっと他の男と楽しむ童女のビノシュであった。この淫乱さにスッポコはあっと驚き、また疑問も持った。

 

彼女は唯一この映画で脱いでいる。よく引き締まった筋肉が自慢だ。水泳がうまい。

きっと監督とできていたか、説得されたかで若い時の体当たりだったのだろう。

監督もなんかヒゲズラの凄い男だった。やっちゃったよ、芸術だからね、っと言って。

 

もう一人のサビーナは、初めから脱ぐための女優だった。だからして、なんか全然説得力もないポリシーももっていない退屈な女だ。ただ綺麗で、実際にも人がよさそうな女であった。

こんな女が、やれ「ソ連だ、革命だ、プラハの春」って叫んでもおっかしいんじゃない?

サビーナはもともとトマーッシュの恋人だったのだが、ビノシュに彼氏をとられてしまう。だがそれでしょぼくれる様な女ではない。おニューな男が、すぐに出現して彼女を口説くのだ。この男バカじゃないの?サビーナにあっという間にメロメロにされてしまうのだ。なんでサビーナが「革命、戦争!」とかいうだけで、サビーナに心を奪われてしまうの?この恋愛はぜんぜん革命とは関係ないじゃん!

 

サビーナが黒いフェルトの山高帽になぜ固執するのかが、一つの問いになっているが、

個人の思い入れの品であるというだけだと思う。誰にだって思い入れというものがあるだろう。

この帽子を受け入れた者(男)しか一緒にはなれないとサビーナは言う。人はそんなにバカではない。ほんとうはこれくらいのことを理解できる人は沢山いる。

 

 

 

 ビノッシュととマーシュは最後はブドウ農園で暮らしてお酒に酔ってパーティーする。

犬とか飼って可愛がるが、犬もいい迷惑だと思った。いくら仕事とはいえ(笑)。

6号室に泊まって(6は不吉な数)次の朝、二人とも、トラックを飛ばして、事故って、そのままあの世に行っちゃうんだよ。

その知らせを受けたサビーナは驚きと悲しみで唖然として立ち尽くすのであった。

 

亡くなった二人に、こんな生活をしていては、ろくなことになりませんよと、説教してやる親兄弟も友人もいなかったということだ。

 

 

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105歳 死ねないのも 困るのよ 篠田桃紅 2017年

100歳以上の人たちをTVでも毎日のように目にするようになった。彼らはとても元気そうで、腰などちっとも曲がっていないし、何や彼やと趣味も多彩である。だがスッポコは特別に羨ましいとは思わない。

やはり100歳は100歳であろうから。魔法使いでもあるまいし。とは言ってもやはり100歳を過ぎて自分を保つというのは至難の技とおもえるのだ。

そんな中で桃紅(とうこう)は現役の美術家であるそうな。世界の各地にもいき、芸術家とも沢山会って来て世界的芸術家に育った人だ。

今や、1世紀以上を生きて来たその人生が

少しは人のために役に立つのかと動き出したということか?

 

スッポコの心に残った話は、桃紅の実兄の話である。

兄はとてもお洒落で、服装などに気を配るひとであった。ある寒い日に、温かいものを着ないで外出する。父親が、おい、風邪を引くぞ、ちゃんと着てゆきなさい、と声をかけたそうな。

お洒落な兄は野暮ったい厚着はしたくなかったのだ。

案の定、彼は風邪をひき、そのまま結核になって若い命を落とした!

この事実がよほどショックであったのだろう。

「命を大切にして、命を落とすな。」とクールな面を投げ捨てて警鐘を鳴らしているのである。

誰しも夢中なことがある。だが、そのために命を落とすのは馬鹿げたこと、 兄の二の舞だというのだ。まあ、長生きした人の忠告は聞くもんですよ。

 

余談ではあるがスッポコの父の親や兄弟も5人結核で亡くなっている。毎年次々と葬式があって家族がどんどん減っていった。父は生前そんな話は一切しなかったが、本当は悔しかったと思うのだ。

 

彼女の言葉には竹のようにサヤサヤと風に逆らわずに生きて来たような雰囲気がある。

賞をもらうのが嫌で、逃げてばかりだ。重荷になるものは貰わない方が良い。

賞をもらって喜んでいる人は、やはり野暮ったく見えてしまう。

謙虚に歩む方が無理がなくて良いのだ。

 

一人では作品は成り立たないと知っている。

部屋があって、紙があって、墨や筆があって、はじめて作品が書けるのだから、自分だけが神がかって書くなどというのは違う、思い上がってはいけない。と、これなどは女性らしい言葉だと思う。男性は、なかなか自分本位であり謙虚さに欠けていると思う。しかし彼女の作品に対しての眼識はわたしにはない。良い作品を書こうといのちをかけるのが芸術家だと思っていたので、またまた、彼女の言葉に驚いた。

究極の作品を作ろうとしても、墨で描くということは、もともと、大変にむずかしいだろう。

人間の方が、墨に食われてしまうからだ。考えれば考えるほど、策を練れば練るほど、、逃げて行く。

宇宙の闇をつかもうとする様なものだ。そんな気がする墨である。彼女は禅宗について度々述べているので、無常、中庸、無限  、慈悲とかに関係するものをあらわそうとしたのかもしれないな。

 

 

爽やかな女性、篠田は空気のように、部屋に射す日差しのように生きることに耐えているのではないだろうか。だがなかなかの勇気である。

 

一〇五歳、死ねないのも困るのよ

一〇五歳、死ねないのも困るのよ

 

 

 

 

 

 

ハンネス ヘルマンヘッセ 短編

ハンネスは子供の時から除け者にされて来た子供であった。体も小さく、兄達と比べるといかにも頼りのない存在だった。

実母がなくなり、後妻のママが来てから いっそういじめられて、いつも森や丘で過ごしていた。

ただハンネスには不思議な特技があって 動物の心がわかり動物がハンネスを好いていたということだ。

ある羊飼いの手伝いを頼まれて、その才能を発揮するハンネス。たちまち評判になって羊飼いとして引っ張りだこになる。おまけに、動物の怪我や病気まで治してしまうので皆からありがたがられるようになり、次は、人間のカウンセラーとして悩みをきいてやる役になったのだった。村の困った人々が

ハンネスの小屋を訪ねて悩みを聞いてもらうと心がとても静まり、いかりや恐れが消えていくのだった。

それがまた評判になり色々な人が小屋にくるようになった。今まで仲の悪かった兄も態度が変わって来た。

だがハンネスは、相変わらず、野山の中を歩き、雲を見たり花を見つけたりする生活をしていた。

そんな中ある日、ハンネスは、丘のあたりで神のような救世主を見たのだった。

それを見た羊飼いの子が「ハンネスが救世主と話をしていたよ。」と人々に伝えたものだから

救世主と話ができる人間として またまた有名になってしまった。

 

ある日、大きな盗賊団が村にやって来て略奪と殺戮が始まった。

町の人々は、ハンネス   に、この大きな災難を救ってもらおうとした。

神に祈り、神と話ができるハンネスなら救ってくれると期待をしたのだった。

 

 

ハンネスの心は子供のままであるのに、名前ばかり有名になってしまった。

結局ハンネスは死ぬほど祈ったが、神の恩恵は得られなかった。あの時丘であった救世主は、どこにいってしまったのであろうか?

ハンネスは疲れ果て広場に出たところを、人々に罵声を浴びせられ、倒れて死んでしまった。

かわいそうなハンネス   。

 

だがこれに似たような話をなぜか知っているような気がしてならない。

ハンネスのような少年、ハンネスのような不遇な運命に翻弄された青年は、現代にもいるのだろうと思わずにはいられない。

 ハンネスのような心の綺麗な人間が、なぜ、こんな酷い目にあうのか。

ヘッセはなぜ、ハンネスを死なせてしまったのか。

世俗と交わるときは鳩のように無垢で、蛇のように狡猾であれ、と注意を促したキリスト。

そうでなければ、世俗に潰されかねないからである。

 

 

 

 

 

食べる私 松平 洋子 2016年

デーブ スペクターはじめ画家や詩人、料理人などに面会して、お話を伺ったらしい。勿論彼らの食についての考えというかそんな個人的なことを取材したのだった。

中には103歳の画家篠田桃紅(トウコウ)も出ている。

おまけにギャル曽根まで。

デーブはとにかく早い、うまい、味がしっかりと言うのが好きだそうだ。トロトロとスローな時間を過ごすコースものは苦手。なぜって

彼は新聞をまいにち20種類も読んでいるからだ。それが彼の底力にもなっているのだろう。

仕事の足手まといになることは極力さけて通る。勤勉な男と見た。

篠田桃紅は、100歳を超えていて食事でも規則正しくとか言って縛られることを極端に嫌っている。

彼女は直感で適当にやっているのだ。それが身に合っているのはさすがである。

私だったら、お金があれば美味しいお弁当を頼みたい。年取ってからの家事は重荷である。

彼女の絵はまたちょっと変わっていて抽象に近いものだ。何か突き抜けた意思が感じられる。

また、土井善晴の、土との関わり合いからできた料理というのが納得のいく意見であった。

 

週刊誌を読むように読んだ作品である。インタビューといってもいいだろう。

特別なことは書いてなかったと思う。

 

ただこのインタビューの半分は、嘘でできているのであろう。こに上がった人たちは有名人で、芸能界慣れしており、つまりは嘘を作るプロたちである。彼らが真っ向勝負をするのは重い病気になったときぐらいだ。

 

本気にしてはいけない。これらの記事が全部ではないがチャンチャラおかしいのオンパレードであることを、スッポコは知っている。ちょっと許せない気もするが、常に嘘をつき続けている人は、自分が嘘をついていることさえも分からなくなってしまっている。写真など乗せて、さも本当らしくみせてはいるが。

この本の作者は、まだ深いことは知らずに出版にこぎつけたのである。

週刊誌のコラムに乗せるような記事をなぜ厚ぼったい本にできたのかは、知るヨシもない。

まあ、商売なんでしょうね。

 

食べる私

食べる私