鳥取県の大山が見えるあたりまで行くと、御来屋(みくりや)駅というところがあり、名和町といって、名和長年(なわながとし)の神社がある。そのあとは、すぐに大山駅、大山口駅、米子(米子)駅などが続いている。
その門前町といっても、静かなものだが、その町で生まれた美子である。
子供の頃から頭脳明晰と言われ、勉強はいつも一番であった。
芸術的なことにも、奥深く達者な目を持っていたと言われている。
それは名家の生まれであった母親の血筋だろうと推されている。
美人の姉は鳥取市の医者に嫁いだが、流行りの病の結核で死んでしまう。その後釜にと美子は、その医者と結婚した。
医者の家が、ずっと美子の学費や、弟の学費を援助してくれていたので、断ることはできなかった。
医者の妻として、よく働き、家を支えたのだった。医院は、国府町という、鳥取市でも、山々が連なる方向にあり、
良い神社もあり、落ち着いた品のある感じがするところだ。
美子は、医院を手伝いながら、文学に近い事をするのが習慣であった。よく本も読み、チェーホフ、ゾラ、モーパッサン、イプセンなど、読みふけった。
そしてほぼ毎日自分で何かを書いていた。時間を見つけては、必死に書き綴る生活であった。
村人も、親切な美子に信頼を寄せるようになっていた。
それは村の人々をモチーフにした、小説であった。村人達の生活をもとにした作品をかいていった。
医者の家は、色々な人間がいて、いつも気持ちが暗くなり、木の葉のようにふるえ苦しい気持ちを押し殺しながら生きて行かざるを得ないものであった。人の気持ちをいつも踏みにじる人間を誰も懲らしめることができずにいた。気の狂ったとも言える傍若無人な家族によって、医者の家族は翻弄されるということになる。
だが、耐え抜いた美子は文学という綱に必死にすがりついた。
土臭くとも立派な作品であり、鳥取市の民藝の父、吉田氏らの尽力もあって作品として出版されたのだった。
だが、医者の妻であるゆえの気働きやら、往診の手伝いやらで、徐々に体を痛めていった。
浮腫が出て、心臓がやられていた。死の床で、
それでも書くことはやめずに、亡くなるまで、「わたしはかくことがすきだった、でも、みなさんわたしのかいたものをわらってください、」などと書きつづったのが最後になった。