スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

天使の恍惚 1972年 若松孝ニ監督

あの「キャタピラー」の監督の過激な作品である。

東京爆破を目論んだグループの人間たちの話。

男女混合なので、いつも男と女が愛し合っていて、特に力のあるボスや、綺麗で能力のある女は、いつも男や女に不自由しない設定だ。

 

爆破の道具を持ち歩き、東京の各所で、爆発させる。兵隊と呼ばれる人間たちは、いつでも死ぬ覚悟であった。

激しい思想を掲げ、激しく徹頭徹尾、肉を切らせて骨を断つ(肉を切らせておいて、その隙に、相手の骨を切り倒すという意)というような行動に徹するのが美徳である、というようなグループであった。

 

ちょうどこの映画と並行して、浅間山荘の赤軍事件が起こった、のも不思議である。

同じように、足が宙に浮いたような思想を掲げて、闇雲に走ってゆく彼ら

お互いにリンチしあう彼らであった。

勇気ある行動とは、思想を遵法し、死を恐れずに、爆弾を設置することである。何も知らない市民たちを爆死させる事である。  政府を転覆させる事である。

時代は高度成長の絶頂期であったように思うが、そんな折に、起こった事件であるのは偶然とも思えない。

 

見ていると、何故か、鳥肌が立ってくるほど、真に迫って怖くなる映画である。

人間が、ある思想によって、このように、気がおかしくなって元に戻れなくなるというのは危険な状態だ。だが人間の極限とはこのように気の触れたようになることも、理解できるのである。

 

なので、三回に分けて見なくてはならなかった。

この映画を観た後は、私まで、なるほど、これで、一仕事終わったと、思った次第である。おかしいけれど、それが感想である。

 

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三毛別(サンケベツ) ヒグマ事件 1915年 山本兵吉(1858-1959)

山本兵吉という、伝説のマタギが、北海道にいた。北西にある留萌の方角にサンケベツという集落があり、森の奥の開拓村であった。そこは特に、六線沢村(ろくせんざわむら)と言った。

 マタギが、偶然、この辺りの狩猟に来ていたとき、この村の惨劇を耳にした。

恐ろしい巨大なヒグマが、朝から夜から住人を食い荒らし、もうすでに7人が殺されて、食われていて、誰も止められず、被害はまだ続くだろう。と。

鉄砲隊が村をパトロールしたが、この熊を止めることができなかった。熊はどういうわけか、にんげんの仕掛けた網をくぐって逃げてしまうのだった。鉄砲で撃ったが、誰も命中しなかった。

 

とうとう北海道の警察隊が270人もこの村に集結し、若者らも加わって、熊退治が行われたのだが、

神出鬼没のヒグマはどこにも見当たらないという具合であった。

 

その時、マタギ山本は一人で目当ての山に登り、頂上まで来た。

熊はそこに逃げていると、ふんだのだ。マタギの経験と勘は、当たっていた。

クマの行動を熟知している彼であった。彼は一人で、ヒグマを射止めた。

 

クマの体は脂肪が深く厚いので、なかなか致命傷に至らない。

狙うのは心臓と、脳天だ。

だが頭も、クマの頭は流線型で、恐竜の様な形であり、とても狙いにくい形なのだ。

タマは 流れて頭上を通り過ぎてしまうからだ。

 

しかし、山本は、木にもたれるようにして、熊を確実に狙ったのだった。

確実に心臓と、頭を打ったのだ。

 

人間を食い殺していたヒグマは遂に倒された。

 

村人は安心し、喜んだ。祝賀会の夜、皆で酒を飲んだ.

もちろん山本兵吉に対しての感謝会である。

幾らかの謝礼が手渡された。その時、

「こんな  はした金が、受けとれるかあ!?」そう言って、天井に、銃を2発撃ち放った山本であった。

 

激しいマタギの性格がそのままに表わされた瞬間であった。

彼には、高い矜持があったのであろうか。たゆまぬ実践と努力、鍛錬、こういうものが、彼を伝説のマタギ足らしめているのだ。

なぜなら、彼でなければ、この殺人クマは仕留められなかったということになるからである。

 

ワテなら、殺人熊を殺した礼金は、700万円以上と思う。

熊を仕留めた英雄として、その名は北海道中に轟き、彼も得意の絶頂にあったことだろう。

その後は、サンケベツに住み好物の酒を飲んでは喧嘩したり暴れたりしてちょっと困った存在になっていった。だがなぜか、長生きした。その後も猟をして暮らしたという。鳥や、リスなどの小動物は、ただの一発でせしめていた。

この一風変わった帽子は、ロシアと戦った時の戦利品であったそうな。ロシアの銃も彼の持ち物であった。

お上から、多分上等の制服が送られたが、彼は一切着ることはなかった。

 

 

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夏を乗り切る。

今年の夏も、冷夏かと思いきや、急に暑くなってしまった。まあ、これで、お米もなんとか取れるわい。

9月になったらまあ、その前に盆が来て、墓掃除に、庭掃除に、畑の草刈りが大仕事だ。

まあ、草刈り機で、バリバリ、それぞれが30分だわね。

新しい草刈機には、安全装置が付き、その分機能というか「パワー」が落ちたわさ。草刈りが、あんま楽しくなくなった。

 

庭だって、本当は私の庭なのに、勝手に剪定するなと言う家族、ケッ、お前らにこの庭に対する愛が分かるものか。下郎め!。

 

さて、玉ねぎを撒くのは9月下旬ほどだが、百姓のおっさんが、この品種をまいて、これこのとおりの大玉になるのよ、と自慢した。いや待て、この人はよく嘘をついて本当のことは言わない。きっとこのタネは 別のものだろう。

 

ジャガイモのストックもあるし、インゲン豆の天ぷらもうまい。カボチャも、うどん粉病に苦労したが、ロロンが、ねっとりと肉厚でうまい。

芋とインゲンで、暑さに対抗している。暑さに負けたら、田舎者の恥というものだ!

煮っころがしは、懐かしい味だね。うちのイモは男爵だけど、これで結構うまいのだ。

息子ちゃんが畑を作ってくれているので、めっちゃ助かるわ!f:id:dekochanya:20190802220405j:image

余った分は売ってます。

 

オクラも血圧を低くするためにたくさん作ったが、なぜかあんまり食べたくない。

毎日日が照って、雨が降らず、このままいくと、昨年と同じで、日照りだろう。

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Tasha Tudor A still water story (静かな水の物語) 2017年

バーモント州のターシャの庭には、美しい自然の花が、伸び伸びと咲いて、かすかに揺れている。

朝露の中で、悪夢を払うような力を持った花の色は、人の心を毎日の様に癒してくれる。

ただ綺麗な花が咲くのを見たくて、植え続けた結果であろう。

多少の見栄もあっただろうけど、まあそこは目をつぶろうと思う。

 

多数の動物の世話は大変そうだし、コーギー犬は性格の良い犬らしいね。

いつもターシャのそばにいて家族の様な感じである。

ターシャは孤独が好きで、こんな田舎の奥まったところに広い庭を作ったのだ。

社交が苦手なタイプらしい。

 

なんども映像化されて、すっかりおなじみになったターシャの庭である。ここでのターシャは91歳。

彼女は92歳で亡くなっている。そんな未来を誰も知らない。やせて、歩き方も、ひどくゆっくりと、転ばぬ様に注意している。 多分これが、最終の映像であろう。そう思うしかない。

庭には、彼女の自慢のオシダ(シダの大きくなるやつ)や、シャクヤク、フロックス、分けてもバラがさいていた。

色々な野鳥の鳴き声がリアルに聞こえてくるのは、ここがいかに森なのかと言うことの証拠だ。

 

低いところには、多くの忘れな草や、シックな色のチュウリップ水仙、ヒヤシンスなど、3月下旬に好んで咲く黄色のアカシヤもしくはエニシダも賑やかだ。ここは北のバーモントなので4月かもしれない。

彼女は、必ず三ヶ所植えて、一番その植物に合う場所を見極めていくそうだ。だからアカシヤも三ヶ所で咲いていた。

 

季節は春で今が盛りの様に芽吹いている。こんな時期を狙ってくるのも、イヤらしいところだ。

ターシャは、促されて、いつもは、歩くことのない庭の奥の方まで、素足で歩き出した。

これは、身体にこたえたと思う。きっと体調も崩したはずだ。以前にも同じことを書いたが。

ターシャと同い年で、やはり92歳で死んだ私の父があるので、体調のことは、わてにはよくわかる気がする。

 

 

90歳前後から、テレビなどのメディアの注目するところとなり、彼女の周辺は急に忙しくなり、

花々も、庭もせわしなくて面白く無くなったのである。

なんというか、広々とした庭が、狭ぜましく見えだしたのである。

歌を歌っていた無邪気な花々も硬い表情に身を固め無理矢理に花らしく演じてみせる。

 

やはり庭は、秘密の花園と言うのが、美しい秘訣でもあるのだろう。

 

彼女は自分がいなくなったのちの庭のことをそんなに気にしていなかった。

成るように成る、そういう、きさくな人だった。

十分に楽しんだ庭は、自分のものだけではない、自然に返すもの、神にお返しするものという覚悟も決まっていたと思う。