スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。映画の感想を書いていきます。(^o^)

帝一の國 2017年 (古谷兎丸原作 ) 永井聡監督

菅田将暉の勢いは止まらない、といったような映画であるが、ストーリーもクリアーであり、菅田の脇を固める配役陣もうまくできていて、ストーリー以上におもしろいものとなったといえる。

これはやはり監督の手腕であろう。

主役の帝一は 本来はピアノが大好きで、喧嘩はまるでダメなお坊ちゃんであった。

ピアノでは、賞を総なめにするほどピアノに入れ込んでいて、それはうまかったのだが。

父親の駒のように名門の海帝高校に入り、のちには官僚、総理大臣と夢を抱く若者になっていった。

しかし、その心の底にあるものは誰にも見せない、誰も知らぬことであった。

風変わりな友人たちと この修羅のような闘いを制して生徒会長になることを目論むのだった

なぜなら、この海帝高校の生徒会長は東大へ推薦、その後は、国の官僚へ、そして総理大臣となる道が開けているのだった。

それ故に、壮絶な闘いがそこにはあった。

東郷菊馬、大鷹弾(オオタカダン)、氷室ローランド、森園億人(モリゾノオクト) などが、派閥を作って戦うのだった。

帝一は一年生ながら、既に、誰彼の派閥へと入り、副会長、さらに会長への道を模索していた。

、勝ち目のある奥園について行き、勝利を収めた

帝一には忠実な光明(コウメイ)がいつも付き添っていて、先を読んだ作戦をたてて帝一を助けるのだった。コウメイ(志尊淳)は諸葛孔明の生まれ変わりのように頭脳プレイを好んだ。

 

最後に、オオタカダン(竹内涼真)と一騎打ちになるのだが、この日とうとう、大鷹が、勝利する。

 

最後に、帝一は学校でピアノを弾いて、生徒会長になった大鷹を祝した。

 

ピアノかあ、実は帝一は、ピアノが大好きで 誰にも邪魔されずにピアノを心ゆくまで弾きたいというただ一つの夢、その夢を叶えようと、ひたすらに願ってきたのであった。

 

帝一はマリオネット(操り人形)という大好きな曲を弾いたのであった。

 

大げさな表現、この世離れした演出などはさておいて、見られたもんじゃないのに見てしまった。

「半分青い」の主人公の女(永野芽郁)が出ていたが、相変わらず、声も小さく マイナーであった。何であんなに、ほんとばかみたいだよ。

永野芽郁なんて名前も覚えにくい名である。やはり糸電話をしていて、ミミ子という名前、ハア?NHKに肩入れしすぎの監督は、だめじゃ!

 

 

 

帝一の國 通常版DVD

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ノーマ 世界を変える料理 2015年 ピエールデシャン監督

世界一のレストランといわれる店が デンマークコペンハーゲンにあるそうな。

世界で一番を決める大会があって、その度に一喜一憂をするなんて、大変な事だ。

森があり、川、海がある場所にノーマはあって、世界一になってからは、有名になってたくさんの予約が入るようになったというが、当たり前だろう。これでも、ミシュラン星二つだそうだ。

いつ三ツ星になるのか、もう獲得したのか。

 

レネ  ゼネピというシェフを頂点にたくさんの人が働いている。

大きな建物の中には、きっといろんな部屋があって、貯蔵、発酵、実験とありとあらゆる部屋があるに違いない。または多くの弟子たちが、泊まっているのか。ひとつのおおきな家族の様に。

 

特徴は、この産地の食材しか使わないという頑固一徹のやり方を通そうとすることである。

植物採集の趣味の男がいたのだが、その男が、ノーマに自分の取ってきた森のキノコを持ってきたことが、

その発端となったらしい。地元のものを使うと、美味しいからだそうだ。

 

当たり前であろう。甘いニンジン、シャキシャキの葉物の繊維、大地の恵みに対する祈りなどなど。

 

その他魚介類も、近海の海で漁師が取ったものである。だからオリーブオイルとかブルーベリーとか、この辺りではないものは使わない。

 

ただ、近辺の食材のみとなると集めるのにも大変な苦労がつきものだ。

乱獲して、なくなる恐れもあるのではないの?

 

その味は、食べてびっくり、目覚めてビックリという。what  book   to  read,   what  music  to  listen  to,  how  to live,   how to  recognize   the world    こんな事が一変する味、悟れる味だというのだ。

 

そのような料理ってなんであろう。命をいただくっていう事かもしれない。

 

そんな有名なノーマにも試練の時が訪れる。牡蠣のノロウイルスによる食中毒で20人以上の人々がノロウイルスに感染した。

保健局が入り店にとって大きな打撃になる。皆の気持ちも士気もバラバラになり、

一位が取れずに 二位に落ちてしまった。

落胆の中、もう一度起き上がろうともがくレネ   ゼネピであった。

それは悲惨な戦い、自分の中の世界一と戦う戦いだからだ。彼の苦悩は深いものだった。

彼は気にすまいとしたが、周囲はそれを許さない環境でもあった。

 

彼はある漁師から聞いた話をする。

パーフェクトストームというのがあって、船は空と海の両方から悪魔のような嵐にいどまれるのである。

しかしそこで、ひるみ、絶望するべきではない。人は嵐は止むことを本能は知っている。

しぶとく耐えて忍ぶと、言っている。

 

それは我々が生きる上で結構重要なものであろうと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜と霧 1946年 ビクトール フランクル 著

映画は見ていないので、本の事で。実は2年前の4月に夜と霧を書いていた。四月というのは何か意味があるのだろうか。

夫婦、子供は、別々にされて、収容。

信仰の夫は精神科医であったらしいが、現場では栄養失調のために次々と人が死に、腸チフスが蔓延していた。その治療に駆り出され、獄の中の人々と接した。たった一枚の下着、それも擦り切れてボロ布になっている。

医師だったので、すぐに殺されたりしなかったのだ。とにかくなんでも一芸に秀でたものは優遇されるらしい。科学者だの画家だの音楽家だの大工だの。

主人公は、少し得をした事もあった。それを他の人にねたまれた。

接した結果、いろいろの人間性をじかに見聞きしたのだった。死にかけた人々、死にそうな人々、

人間のありとあらゆる悪い面が前面に押し出されるであろう事もおぞましいものだ。

状況も人間性においても全てが絶望のどん底にあったのだ。

 

人間はあくまでも汚く人をしのいでも生きようと企んでいた。しかし、企んだ人たちは、あっという間に殺されていったのだ。残ったのは阿呆の人々ばかり。

ただ純粋な何かを信じていた人々であったのだ。限界に及んで助かるというのは不思議なものだろう。

主人公の妻子は殺されたらしいと知って大きなショックであったが、生きることを選んだ主人公であった。

きっとそんな重大なことさえ、生きることの方が最も重要であったのだろう。

 

怖い将校が幾人もいて、人々を苦しめていた。地獄のような苦しみを与えて、いたぶるのである。

音楽が好きな将校は、ピアノやバイオリンが弾けるものを優遇したが、本気で優遇したのではない。

彼らは断崖絶壁で、演奏している様なものだった。他の人々は、彼らが優遇されていると思って羨ましがっていたのだが、気に食わねば、次の日には殺されていたりした。

ただそのピアノの音は、泣くような音で奏でられるので、わては絶対、よう聞きませんで。

 

人々が、コッソリとやっていたり歩いている時、「見ていなくても、全てを見ている」将校がいて、とても恐れられていた。骨の髄まで氷って砕ける様な鋭い目つきで、罰を与えるのだ。こっそり歩いているだけでガツンと怒られて殺される恐怖を味わう人々であった。

 

この将校のような人間がやはりいるのだ。なぜなら、こいつとよく似た「見ないのに全て見ている」女を知っているからだ。その女は弱いものいじめが三度の飯より好きという手をつけられない女である。

この女は、野菜売り場の女なんだが、店のないわての町ではここに行かねば、何も買えぬ。

それどころか、わてはここに野菜なんぞをおろしているんだった。

わてはよくよく残念で、考えた。この女をどういう風に凌げばわては助かるのかと。

ネギを買った時、わてが恐る恐る出した小銭をカーン!と音がする程強くレジに投げ入れる。なぜ、わてが出したお金をそんなに手荒く投げねば気が済まないのかね。なぜかお釣りのことで怒鳴られる。その神出鬼没の恐ろしさは人間業ではない。

そんなにわてが憎いのか。わての出した野菜をみんな干して捨てているのか。

おはようございますというと、なぜか「ちょっと来てください」と呼ばれて「こんなものを出して、お客さんから文句の電話があり、あなたの品物をへんぴんにこられました。」見ればなぜか粉々に砕かれた野菜を返品といってわざわざ渡してくる。餅を出した時は、歯型がついてぐちゃぐちゃに吐き出された餅がへんぴんされてきた。アンコのいちがわるいとのこと。?、?、?。

 

ある日気がついた。要するに、気の違った人といっても100パーセント当たっている。

おかしいだけなら怖くはない。そこに、上司とかライバルといった利害関係が生じる時恐ろしさが生まれるのである。

気の狂った人々は平気で人を苦しめて楽しんでいる。

気の狂った心を持った障害者であると、認識すべきである。

この店はアウシュビッツ  ではないけどね。アウシュビッツポーランドにあって、観光地になっているらしいで。

 

最後に、戦争が終わって、彼は助かった。他の生存者と共に。

 

アウシュビッツから助かった人々は、後に、何も語ろうとはしなかった。

心が圧縮されて変形してしまったかのようである。

助かったのは奇跡であったが、よく言われるように。、夕日が綺麗、と思えるかどうかという単純なことでその人の生存率が決まったのである。

ただ彼は医師で、インテリだから、プライドがあるわな。

それがやはり嫌味である、と思う。

 

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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『夜と霧』ビクトール・フランクルの言葉 (ワニ文庫)

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ハーブand ドロシー アートの森の小さな巨人 2008年

ヴォーゲル夫婦には面白い趣味があって、アパートにそれはそれは沢山のアートを持っているのだった。

彼らは協力して、アートを集め続けた。夫のハーブには、美術品を見て、見極める眼識があった。それは大人になってから、図書館に通い詰めて培ったものでもあった。

直接画家の渡り合って、絵を買うという手法をとった。それで、たくさんの画家や芸術家と知り合いになったのだった。全く売れない芸術家を訪ねては、根掘り葉掘り作品の情報を聞き、気に入ったのもを買い込んだ。

 

この作品には何かしら未来を感じられる、とかいうのだが、白紙の絵画であったり、ブリキを固めたオブジェであったりと様々ではある。それを良い状態で保存しているのだ。

 

二人は給料を絵につぎ込んだ。作品を見たり買ったりの日々は、二人にとって夢の国をたどっている様な楽しいものであったと想像できる。

楽しかったから、できたという結果なのだ。

 

ヴォーゲル夫妻は、その道では次第に有名になってはいたが、職場では、誰も知らないことであった。

 

 ハーブは年もとった。ある日、ニューヨークのナショナルギャラリーから

あなた方の集めた作品群をナショナルギャラリーに寄贈しないかともちかけたれ、それに同意する。

 

小さなアパートに、本当に多くの作品群があった。学芸員たちと、トラック運転手たちはパニックになった。なぜこれほどの膨大な作品が、小さなアパートに収められていたのか。謎であった。

 

多過ぎたので、他の美術館にも分散されて収められた。

さて何日もかけてギャラリーに運ばれた作品はどれも素敵な意味を持っていた。

コンセプトのあるものコンセプチュアルな作品しか集めなかった二人。それは全てミニマルで、アパートに入るものに限られていた。まあ値段もそれなりのものであろうが、中には高額なものもあったであろう。

 

ナショナルギャラリーは、誰でも無料で入館できる。沢山の人に自分たちの作品が見てもらえると、夫婦は本当に喜んだ。

名もない作家の中から、数人は、有名になって育っていった。売れなくて貧乏だった時、夫妻に作品を買ってもらった喜びを皆が覚えていた。それはなによりの励みになったことであろう。

 

ミニマルな作品というのは、小さいが、コンセプトがあり、必要不可欠なものを含むということらしい。

ドロシーは素敵な作品に会うと、ステキだわ!といって喜ぶ。木の枠組み、針金、なんでも芸術になった。

眼識のあるハーブに頼って集めてきた作品の数々は、郵便局に勤務した給料をほぼ全部つぎ込んできたものである。ハーブの性格はかわっているようにみえる。感情を表に表さない古いタイプの男であった。嬉しいときも、悲しいときも、平然としていて、感情が見えないのである。

これは特に成熟した男性のタイプではないのか。

 

すごい作品に出会っても飛び上がってよろこんだりしないのである。淡々と、である。

逆に何を考えているのか読めないもどかしさがあるが、

喜怒哀楽をすぐに表に出す現代の若者や、女子には、はるかに及ばない世界に住んでいる様に、スッポコは感じた。

この性格と芸術との間にどの様な繋がりがあったのかは、解明すべきであるし、謎の様な気がする。

 

手に手を取り合って暮らしたふたりの夫婦の有り様はほほえましく、とてもうらやましい。

ハーブは、ドロシーを残して、数年前に亡くなっっている。

 

 

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