スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

ブッダと悪魔との対話  中村元  訳

壮大な仕組みのインド叙事詩のように。まず、よく訳せたなと思うこと。日本人にもわかるように訳すのは大変な事だっっろうことは分かりるね。

まず、出演者は、梵天という、いつまでも若いという天界の神々の主、ブッダ、多くの尼さん、バラモンという修業者たちが主である。彼らはお互いに詩を交わし合って話すのである。ほらね、叙事詩っぽいでしょ。

ところが、ここにもう一人の悪神阿修羅が出てきて、ブッダを愚弄しようと策を練るのである。

とにかく何を使ってでもブッダの心を破滅させようと必死である。これは現代でも過激で無意味ないじめなどにも見られる事実である。恐ろしい言葉を使って、心に破壊的なダメージを負わせようとしている。

お前は、堕ちるだろう!破滅なんだよ、と宣言する阿修羅である。でも、ブッダはほぼ相手にもならいと、追っ払うのが常であった。アシュラはとてもしつこくて、この作品中でも、ブッダに常に戦いを挑みあらゆる地獄の手管で、彼を落とそうとすとするのである。ただお互いに詩を詠んでいただけではないのだ。実際は、命を狙われていたというのがあったとおもわれる。

ブッダといえども、ノンビリ、瞑想に耽ってばかりではいられなかった時代である。野蛮な一派が、彼を滅ぼそうと狙っていたのだから、命がいくつあっても間に合わないさ。

阿修羅像は有名であるが、手が数本もある悪魔神である。

それを思っても、ブッダの人生は困難色に染まっている。その中で、平和、安寧を解くのは容易なことではなかっただろう。そう思うと、何故でも、感慨深いなあ。

彼とても、たまに病気をしたりもするようで、弟子たちが心配して村からクスリや、ハチミツなど求めている。

彼は生身の人間であったのだ、と今更驚くスッポコであった。   :敬具。

 

追記/梵天は、若く美しく神々をまとめる頂点のいちにいるのだが、生きているときから、多くの修行をした報いでもあった。その中で特に、忍耐についての言葉があった。全ての美徳のうちで最も最高のものは忍耐というものであるとー耐える事、徳の無いものは無力で人生耐え続けるが、絶えないよりは良いのだと言っている。ホンマカイナ!

 

 

 




今日は良い天気で

今日は良い天気だが、あれほどお客を呼んだ桜も終わりに近い。

郷土のお祭りがあるのだが、ほとんど高齢者ばかりにて、重いお神輿や、山車を引く人も少なくなっている。子供の頃から親しんできた稀代の祭りである。自分たちの祭りこそ、一番すばらしいとおもうのは、なぜだろう。あの太鼓の音、横笛の響きは聴いた人たちに、忘れ去られた時を思い出させる。

泥に塗れた田植えのことや、父母の手伝いをした畑での駆けっこなどなど。土の匂いが切なくも甘く春風が吹き渡る夜。そう夜の祭りである。実は祭りは昼頃から始まるのだが、夕方にかけてだんだんと暗くなり、午後10時、11時と時を重ねて夜中となってクライマックスを迎える。真夜中を廻ってもまだ続き、御神事を終えてっやっとふける。既に午前2時だ。子供たちの親は初めから終わるまでずっと子供に付き添う。

山車の上で寝ている子供達もいる。ぐずって駄々こねる子供らもいる。長丁場にたえられないのだ。

山車の形は特別であって、何かどこにもないような山車である気がする。素朴な二階建てになっていて、綺麗な塗り物の厚みのある屋根は反り返っている。飾り物以外は全て木製の作りである。ゴロ(タイア)

も、全て円形の木製のものだ。屋台は毎度毎度 全てのパーツを解体しては組み立てるようにできている。

高さは大人2人分と半分ちょっとある。屋根にも乗って進行方向を知らせる。

街の道はどこもかしこも車出入り禁止となって、自転車も走られぬ決まりである。大きな山車は田舎の道を幅いっぱいに塞いでしまうし、動く神輿や榊は狂ったように動き、突飛な事故になる事があり、危険なのだ。

獅子と猩々がピョンピョン高く飛び跳ねるのでとても怖くて近寄れない。彼らは神の化身だとみなされているのだろう。

しかし一番の主役は数人の多分多い時は7、8人の若者らを乗せたおおきな山車である。それにしても何故こんなに大きいのか疑問もあるほどだ。ー何のために、誰のために、何を運ぶために?と色々疑問も湧いてくる。昔お城のお殿様がこれが良い、とおっしゃったのか。ほぼ家の形の山車をヨイショヨイショと何時間も引ぱるのだ。

皆がお酒に酔っているため、なんかヨレヨレになって来る。それでも目的地まで引いて行って更にそれぞれの区域にまた持ち帰り、やっとのことで終り、解散となる。役の人はまだ終われないけれど。

とまあ、大雑把に述べたけれど、

故郷を出た人々も、何故かこの祭りほど心を打つ祭りはないと、言い張る。

この地方がすごい田舎で、街に出るのにも苦労があり、学校に通ったりお勤めに出るのにも苦労が絶えないといった田舎であるゆえの不思議な落差が生んだ祈願の気持ちーその幻なのだろうか。

 

 

 

 

デイサービスに行っています

大きな病気をして手術もして、一挙に介護保険のお世話になってしまった人生。

退院どきに何故だかケアマネさんも来ていて、デイサービスでリハビリすることになった。

ずっと家にいても、退屈であるし、ひとりぼっちだと発作時に怖いし、家族は頼りにならないしと、考えた。

さあ、初めてデイサービスに行った日はちょっと緊張してお澄まし顔で過ごした。

 

何日か過ぎて行き、そこの施設には色々な人がいて、それはもう手一杯、目一杯の感じである。沢山の人生の縮図である。まず、自分が誰なのかが分かっていないーまた、そこの施設がなんなのか、カフェなのか、料理屋なのか病院なのか、判断がつかない。自分の年齢もわからないから、90歳は裕にすぎていても、ずっと若いとおもい込んでいる人が多いのも特徴だ。こういう場合は、ほとんどが小学生ぐらいになっている。そんなこんなで自分以外の人がどういう人かも、何才ぐらいかも分からないのである。ここに来ているのを、きっと家族は知らないから、連絡しておかなければと、本気で思っている。ここには今日も一人で歩いて来たといっていた。ここは基本外出には施設長や家族の許可がいるのである。まさかである。勿論、家族が、介護の費用も払っているのだし。

このような変わった人々と一緒に過ごすのは、特別いやではない。今まで感じたことのない余裕を感じて優しくなれるから。ところが驚いたことに、時々思わぬ伏兵が枯れ草の中から現れるのだ。いつも眠ってばかりのご老齢の男性が、急に私にひどい言葉を投げて来た。「お前のようなグタグタ喋る奴は、嫌われて、ここから出て行けといわれるゾ!」普段喋らない無口なご老体が急に目覚めたrising  dragonのようにドスのある声で

何度も何度も、私の耳に囁いて来たのである。 体が悪くて、気の毒なご老体と思って同情を持って接して来た私である。あの哀れな様子は、みんな見せかけのフェイクであったのかと、突然夢が覚めて壁に顔をぶつけてしまったような、しまった!な経験であった。

私って嫌われるタイプなのか、やっぱり?ちょっとショックでした。私は別に彼とは無関係なお天気の話とかを隣の人と話していただけですのに。

 

無理もない、無理もないー私だって、嘘まみれの人間だもん。本当は私の方が哀れな人間かもよーつまり、それを彼に見破られたようで、ハッとしたんだ。彼には彼の人生の尺度があるってことかな。どちらにしても もう彼の近くには行かないわ。私。

 

 

 

 

 

ある晴れた日に、家が建つのを見ていた

それは私が4歳ぐらいの時であったが、白くきれいにけずった木が何本も建てられて組み合わされていく。

大工さん達はもう高すぎて見えないほどだ。中也の好きな詩に、ああ家が建つ家が建つ、僕の家ではないけれど、というのがあって、春の空の下に、建つ家が見えるような良い詩であったが。今の家は、重機が作るようなので、このような風情はないのでしょうね。

隣では、大きなセメントの建物も建っていたーコレは珍しく美しいながめだった。

喜んで飛び上がって、駆けって見に行った。都会のビルのようなハイカラな建物。この辺りに吹く風さえも、都会の風のように軽やかに舞っていたように記憶している。

それはみんな子供の時の記憶、束縛を受けていない時期の自由な思考。

あれらは皆、ただの夢だったのかもしれないー美しい夢。私が取得出来なかった物たち。建物にしても何にしても、結局は自分のものは何もないー何処からかある日やって来たものたちばかりなのだから。

空に浮かぶ天蓋のように、それらは私の記憶に中にあるばかり。

 時間を飛び越して、時間を超えて、現在過去へと心は縦横に進んで行く。過去の時間も私に取っては、リアルと同じぐらい大切なものだ。

恐ろしい退行が起こるかもしれないし、過去に行くっていうのは 死んだ人々に会いに行くような意味でもある。

青い鳥の冒険のような。心の中では、時間は常に混在しているというのが本当だと思う。