スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

海の上のピアニスト ジュゼッペ トリナトーレ監督 1998年 イタリア

今更、「海の上」っていう手もあるまいとおもう人もおられるでしょうが、めっちゃ良い映画なのでお勧めしたい。たぶん、ピアノ映画の中では、最高峰であろう。エベレストのような映画。エベレストには行ったこともありませんが。

ティム ロス主演の映画であるが、ティムは、そんなにメチャメチャいっぱい映画に出ていない。

のに、この演技だ。きっと監督が、とにかく凄いんだろうね。

船から陸に降りたことのない男の話だ。本当に土を踏んだ事がない男の話です。

赤ちゃんの時大きな客船のピアノの上にすてられていたのだ。船員達が、懸命に育てて、大きくした。

船の中を自分の世界と思い、広い甲板を走ったり、眠ったり食べたりしている。

コックも、医者も、神父も何でも揃っていて何不自由のない生活ができる。こんな理想郷はめったにない。

彼は知らぬうちにピアノを弾くようになる。そして、海の上のピアニストとなったのである。

彼の演奏はなぜか人を引きつけて、有名になっていった。船の客達の口コミ力だろう。

船の上にすごいピアニストがいるという噂が、陸の方にも伝わってきた。

それを聞きつけたジャズの天才(自称)が怒ってジャズピアノの腕前は俺が一番だと言って、挑戦状を送ってきた。

うけてたったのだった。男として、船の船員達のためにも、また、孤児の意地に賭けてだ。

そして順番に一曲ずつ弾いてゆく。審判は、観客たちである。

この時から二人の男の熾烈な闘いがはじまる。まるでボクシングマッチのチャンピオン戦か、真昼の決闘かと言った様子を呈してくる。よそ見もできず、電話にも出れず、何か魔法に書けられたようになるすっぽこ。皆が生唾を飲み込んで見守るなか、船の男は凄い曲を弾き始める。

えーっ!って感じだ。このようなピアノは空前絶後である。彼は渾身の力でピアノを叩いた。

それは激しすぎて誰もついて行けないようなものであった。

その激しさの中に彼の孤児としての悲しみや苦しみが見えたような気もする。陸に上がれない船の亡霊として 生きていくだけの人生はかくも深刻ではげしいものであったのか。

相手の男も何か苦労人のようではあったが 、人生が船の上だけであるはずがないのだった。この男は、陸での生活もあり、名声を望んでいた。

もう一人の我らが主人公はそんなものはないも同然。彼には本当の名前さえないのだった。

「nineteen hundred 」という変わった名前を付けられてはいたけど。

 

船が古くなり、解体されることになった。ダイナマイトで爆破することに決まったが、彼がまだ船に住んでいる事を確信して爆発をやめさせようとする一人の男がいた。元友人の船のバンドマンであり、彼は絶対に船から降りていないと言いはった。船は動かなくなって何年も経っていた。乗組員たちももう誰もいない無人の船であった。

彼は、でも一人で船にいたのだ。船を降りろと説得する友人に首を振って、ここに残るからという彼。

あした爆破されてしんでしまうよといっても、かれは「ノー」という。いずれにしても、陸では生きられないのであるから。

彼は次の日船と共に海に散って行った。さよなら、nineteen hundred.  これが彼につけられていた唯一の名前。

 

なぜこの映画が胸を打つのか、それぞれに、思いはあろうが 、スッポコはこの障害者のような生き方に星の瞬きのような美しさと同時に、深い悲しみを感じるのだった。

 

 

La Leggenda Del Pianista Sul

La Leggenda Del Pianista Sul

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あん 」樹木希林主演 2015年 永瀬 正敏 内田伽羅出演 ドリアン助川 原作 河瀬直美監督

まず、ドリアン助川とは、川瀬直美監督とは、一体どんな方なのかという事だ。

川瀬は「モガリノモリ」を作った人だって、「そして父になる」も、ね。ふっーむ、なるほどだいぶん分かってきたぞ。「ドリアン」て真面目な人?名前が変だし。「直美」も、よっぽどだしね。

まあ、此の「あん」は、めっちゃ面白かったわ。どら焼き屋に現れた樹木希林のおばあちゃんが、何かあんこ作りの名人な訳よ。それで、どら焼きが、よく売れてバンバン売れるようになるんだが、

店長も、お婆も、訳ありでな。お婆は、若い時にらい病に罹り、園に隔離されて、長年過ごしてきた人だった。ただ近年病気が治癒したという事で外出が許されていた。初めての仕事は、どら焼きやでアンを仕込む事であった。

彼女の特徴は、なんでも耳を澄まして、小豆の声や風の声、いろいろなものの声をよくよく聞くというものであった。

彼女には小豆アズキの声が聞こえてくるらしい。ここまで来るのに、苦労もあったアズキ達であった。

お百姓に蒔かれて、雨や風やお日様に照らされた。土埃を被って目が見えない日もあった。

じりじりと暑い日にお百姓が来て草取りに来て、暑いもんだから、乱暴なことをして帰って行ったよ。

そんな事が、聞こえるらしい。いや嬉しいね。小豆は暑い時に蒔いて、草取り、収穫は、寒風の中って事で、よくぞ言ってくれたよ、婆さんよ!

スッポコやお百姓さんの苦労がこれで報われるわな、マジで。だもんだから小豆には意味が詰まっているんだとよ。

そういえば、映画で「米」っていうのがあるようだ。こんな題名怖すぎるわ。もち河瀬の作品ではないのだが、一体どんな映画なのかね。

米作りの苦労は数限りなく、ああ、ため息がでる。大変な事なんですよ。といっても、スッポコは菜園のみですが。みじかで見ていても、米作りのことはようわからんのよね。

 

らい病がバレて、婆さんはクビになり、園にかえった。

店長は其処を訪れる。

木が沢山沢山ある、広い林か森のような綺麗な場所が、その園であった。

店長の眼は、自分と同じ眼だというおばあさん。

ここに閉じ込められて、もう出られないと悟ったときの自分と同じ悲しい悲しい眼だと。

店長にも悲惨な過去があった。

 

ゆっくりとした語り口の樹木希林は此の映画で、会心の演技ができたとおもったことだろう。

樹木希林の孫の内田伽羅も、高校生役で出演。これも素晴らしい演技であった。顔はもっくんにそっくり。

生きている意味が、そこにある。 人は何かになるために生まれたのではない。風の音を聞いたり、花を見たりするんだ。それに意味があるんだ。生きている意味はそこにあるんだ。私の人生は無駄なものなんかじゃなかった。

婆さんは、園の木にもたれて、一人そう思うのだった。

生を肯定した

嬉しい作品となった。

 

 

 

 


 

 

 

 

the corpse bride 2005年 ティム バートン監督

ある魚屋の息子のビクターは気が弱い青年であった。この声は、ジョニーデップがやっています。

年ごろになっていたので、親は結婚の相手を探していた。そこで見つけたのは、ある大金持ちの家の娘で、とても可愛い娘であった。直ぐにでも結婚式を挙げてしまおうと焦りまくる親達であった。お互いに釣った魚を逃すまいというわけだ。

お金持ちの家は、屋敷だけは立派だったが、じつはもうお金はからっきし失くなっていたのだ。

それを知らないビクターの親達は、お金に目が眩んでいた。

結婚式での誓いの言葉を、ビクターは何度も間違えて、結婚式は中止。郊外を彷徨ううちに、あるところへ着く。そこは地下の死者の国であった。

そこでは昔夫に殺された女が幸せな結婚願望にとりつかれて男を待っていた。気の弱いビクターは直ぐに気に入られて、女に所望される。

コープスとは死体のことであり、長く墓にいたので、ゾンビ化している女であった。それでも男が欲しいのか、ずっとビクターに取り付き離れてくれないのだった。ビクターは結婚を中止したが金持ちの娘のビクトリアの可憐なすがたがわすれられないでいた。本来なら、結婚していたのに、自分のせいで、全てを台無しにしたことを思い出す。こんな死体と、結婚するにはビクターもコープスにならねばならなかった!追いかけたり逃げたりで、骸骨達の大合唱。

外国の人って、ホント骸骨💀とか、ゾンビとかが大好きなんだかねえ。日本人の感覚とは少し違うんだと思う。日本の幽霊は足もないし、風のように追いかけてくるので逃げようもない。何より心を見透かされているようなところが怖い。ただフランケンシュタインだけはこわすぎるとおもう。がいこくのトップモンスターだと思うが。映画ではフランケンシュタインはとても優しい奴なんだけどね。

 

このコープスブライドは、期待を裏切ることなく、思った通り面白くない。

画面が白黒っぽくて、誰が誰だか分かりにくいし髪型などを目でなぞって、これは誰々と判別してみていた。

コープスは特別怖くもないし、説明も何もありませんです。

ただひとつだけ良いとおもったのは、冒頭の部分であり、魚をさばく魚屋の両親の暮らしぶり、これが

なんか良かったなあ。

 

 

 

 

悪魔の陽の下に 1987 モーリス ピアラ監督 フランス

キリスト教の厳しい教義を信奉し、牧師として生きる一人の男の話である。

これはかなり不思議な感じの映画であった。

なぜなら一人でいる時、ふと自分はどういう人間で何のために生きているのか、などと、つい考えてしまうような戸惑いのひと時。そのようなかんじがしたのです。自分の潜在意識に触れようとでもするような静かな時間、そんな気がする映画であった。

神父は屈強な身体を持っていて、多分自分でも持て余すほどの精力がありそうな男である。どこかピエール瀧ににている。ところがこの男は、ドMで、いつも自分で自分に鞭を当てて血を流していた。

キリストが刑場に行くときに鞭打たれたように。

彼は人生について真摯に考えている。神についても、真剣に向き合う事を信仰の第一義としている。

あまりにも直接的で、息が詰まりそうである。指導する年上の牧師も、もう少し休んだらと、忠告するばかりであった。

ある日旅の途中で悪魔に出会い、悪魔は牧師の体を求めてきた。悪魔の誘惑を退けて、悪魔に勝った、と喜んだ。

その後、どういうわけか不思議な力を授かった。それは人の心が読めるというものだった。

 

ある一人の若い売春婦はまだ十代そこそこの感じで、どこかの公爵の女になっていた。他にも医者ともできていた。そして なぜか理由もハッキリしないまま公爵を銃でころしてしまう。

驚いて遠くに逃げる女、とても怯えて、罪の重圧に苦しむのだった。

その辺の感じが、あまり飾らずに、役者のアップとかもなしで、ただ淡々と現実の生活通りに映しだされる。大げささがない分、本当の事のように見えるのである。

これが、この監督の映画の力であろう。

この少女は、自殺してしまう。 この少女を救おうとするが、救えなかった。?

 

この牧師の噂を聞いたある一家が、死んだ息子を見て欲しい、いや、子供を生き返らせてほしいと頼んできた。

いやむちゃくちゃだろう。しかし彼は生き返らせた。

このようなことが重なって、彼は聖者だとみなされるようになり、かれはますます信仰を厚くしようと

自分に奇跡を行わせてくれた神に恩返しをしようと必死になっていく。

仲間の人々は彼のあまりの苦行に心配していた。命を落とすような苦行に。

彼は狂気の沙汰であった。自分がキリストのように生きることは狂気の沙汰であった。

彼はある日懺悔室で婦人の懺悔を聞きながら、息を引き取った。

先輩の牧師が静かに目を閉じてやるのだった。