ゲーテは、小説はもとより、詩も手がけている。詩は短いし、ちょっとした旅の片手間にもかけそうな物だが、まさか、詩だからと言っていい加減に取り扱ったとは思えない.短いものだからこそのむずかしさもあったはずである。皆がよんで感動するもの?ちょっと違うだろう。そこはともかく、「ツーレの王」では、亡くなった妻のお妃を愛するがあまり、カタミの黄金の杯をいつも側においていた。愛に生きて愛に死ぬという一途な人ツーレ王に読者も誰もついてゆけない。シューベルトによってこのツーレは歌になっている。
お妃との思い出を頼りにしながら暮らす生活は生命的には追い詰められ、王子に全てを譲って、王本人はただ黄金の杯を握って城の大広間に家来らを呼んだ。で、杯にお酒を満たした.そして、それを口にすることもなく、外に広がる広い海にそれを投げ捨てた。するとその時、王の目は無惨にも窪み、既にあの世へと旅立っていた。王妃の杯は青く深い海へと落ちて行った。
これは同じくシューベルトが作曲した「魔王」にも見られる手法で、何か感ずるところがある.亡くなった男の子は、この詩によると父親が抱きしめていた坊やは、どうも婚外子であったように書かれていて何をかいわんやなのだ。
「コリントの花嫁」では、ギリシャ神信仰の若者が、コリントへとやって来る.ここには彼の許嫁が住んでいる家があったのだ。まだ会ったこともない未来の花嫁である.家を訪ね、泊まらせてもらって寝ていると、夜も老けてゆき、白いローブを着た娘が若者の部屋に入って来る。なぜか青ざめ切ったような娘の顔.二人はもつれあいお互いの愛を告白していくが、突然、母親が入って来て二人の情熱を中止させてしまう。娘は恨めしい顔で去ってゆく.引き留める若者の言葉もきこえないのか、すでに灰色になっている。娘は死人、墓から夫のところへ出て来たのは、恋愛を厳しいクリスチャンの母親に禁止されて、こいこがれてなくなったという若い娘あったのだ。コリントでは多くの家がキリスト教に改宗し、若者の家のギリシャ神を信仰する人々は減っていくばかり。キリスト教は男女の不倫や自由恋愛を厳しく罰するような風潮があった.
この屍のような娘と契りあおうとしていた若者も、死んだ娘の元へゆくべき運命となり果てて、共にあの世への旅路の準備をし始める。娘は愛する若者の生き血を吸い上げて、この恋の成熟のために現れたのであった。
このようにゲーテはギリギリまで自己を偽らず、また他人をも裏切らず、この世に咲く花々の中で暮らし、陰惨な嵐の中を行き、乗り越えた経験を世の人々に出来るだけ理解できるような詩に著しておこうとしたのだろう。
親和力では、小説の冒頭では、主人公は自分の家の庭で、植木の手入れを始めるのだが、若くて健康な妻をもち、若い木の枝の手入れに勤しんでいるという何も文句のつけようのない幸せな家庭の様子が描かれる。ある特異な出来事のために壊れてゆく様をえがいてゆく長編型小説。キリスト教の清い信心を中心に、何かと言えば、イエス様という感じで、自己を正当化しているようなところもあるが、個人個人で折り合いをつけるべき問題である.特に宗教上の事柄はね。
小説はやはりゲーテの本骨頂となっている.そこから派生したものが、こぼれ落ちて詩となったように見える。


