香川県(讃岐) に生まれた源内は発明家、画家、作家、本草学といった多種多様のことに興味を持ち実際にやっていたという万能型天才であったという。筆を持てば、幾つものおもしろい本を書き、評判になった。身近な江戸市民の生活を描いたので粋な江戸っ子たちは大喜びで読むのだった。花魁セガワの死のストーリーも、多分源内が書いた小説なのであろう。入水して地獄に行くとというところから始まる。
ただ、ほんとうのげんないの方はあまり女には関心がなく好きな女とかはいないというふうになっているらしい。全てのエネルギーが別の方面へ向かって行ったからだろうか。
本草学を徹底的に学んだ彼は、植物のことはなんでも知っていて、薬草については目利きだと言われ信頼されていた。
5巻にわたる「根無草」という小説は、もともとその時代随一の奇人変人と言われたある僧侶が書いた「元なし草」というものを元にしていて、
この僧侶と、仲良しになり、気が合って、この本を表したという。江戸中の評判となって売れに売れたという。江戸の街を愛し、町中歩きまわり路地に入りどこへでも出向いて江戸の内実を知った源内であった。
いろいろな話題にのぼる彼であるが、オランダに倣うということで、長崎に行った折、西洋の絵画方法を知り、本草学の絵を描く時にそれを用いた。他の絵を描く仲間にもこの書き方を伝授もした。美しい遠近感のある絵が描けた。また、オランダ線から壊れた電気機器を貰い受け、分解して研究した。
一方源内はオランダ語の方は苦手だったようで、いつも若い通訳者を介してオランダ人と話をしていた。オランダ人は源内のエレキテルへの
考察に大変感心してすごいすごいと誉めたという。当時は東オランダ商館というものが長崎にあり、カピタン(キャプテン)と仲良しになり、いろんな新しいことを知った。源内はもちろん大喜びであった。源内は杉田玄白(解体新書)とも仲の良い友人であった。2人はエレキテルを治療として使えないかと模索したのである。
結果、肩こりとかには特によく効くことが分かったのだが、万病に効くという事は証明されなかった。
このエレキテルは、ものすごい人気で、一日中見物人が押し寄せ源内の家はごった返したという。
後は鉱山の仕事も引き受けた。埼玉県の秩父に、鉄の鉱山があるとして、開発に行ったのだが、何かと障害が多く、良質の鉄が取れなかったため、失敗に終わった。坑道の落盤により大きな責任を負ってしまった。
大きな借金と反感を背負ってしまった源内は、得意の小説で、なんとか盛り返そうとしたが、落ち目の時は何をしてもうまくいかないもので、売れ行きはパッとしなかった。
すっかりしょげて引きこもり状態の中で、源内はそれでもエレキテルのことが忘れられなかったのだ。この不思議な現象を彼にはどうしても解明すべきことと強く心に畳み込んでいた。
いくつかの殿様のお抱えとなり、幕府の田沼意次にも仕えていた事は有名。失敗続きの源内に誰も同情してくれるものはいなかった。浅間山の噴火があって、時が来たように、田沼の権力も衰えて行った。
エレキテルのことも、いつの間にか使えない機械として抹殺されていた。
なんとか屋敷の設計図を盗まれたとして、男を切りつけた源内は、捕まり、入獄となった。
この様な事になったのは本当に気の毒だ。彼の才能と、あまりにも釣り合わぬ結末である。
ただあまりに頭がよいので、それを妬んでいた人々もいたという。天才であるが故に、ある意味騙されやすかったのかもしれない。
破傷風になってしまった源内は、冷たい獄中で、一人亡くなったのである共に蘭学に励んだ親友の、新井白石は彼の死を惜しんで、墓に彼への追悼文を書いた。非常の人、非常なことをして…云々。彼の型破りなアイデア、発想、そして生き方を「非常」という言葉で源内をなぞろうとした。
オランダ人は源内の持つ素晴らしい才能におどろき日本という国にはこのような人物がいるということで日本への評価が上がったということだ。才能、創造性、探究心、推理力、人々のためを思う博愛的精神、どれをとっても西欧人に引けを取ってはいなかった。ある日など、余興でオランダ人が差し出した「知恵の輪」を、多くの人々の中であっという間にするりと解いたのは源内一人であったという。
なお、源内については、平野威馬雄(イマオ)氏の「平賀源内の生涯」という本も参考にしてみた。
平野氏の懐の広い厚みのある文章は伝記とはいえ彼の文章力はなかなかのものである。彼は平野レミの父親であり、面白そうな人である。上智大で学んだとある。フランス文学、哲学など。


