スッポコ谷の楊貴妃

もうすでに還暦女子。すっぽこだにで瘀血と戦ってます。ホテルの換気扇が嫌いすぎて旅行できないのが悩み。

ヘッセの読書術  フォルカーミヒエルス編集  岡田朝生

この本もふと図書館で手にとったものである。お懐かしやヘッセ様、と言うことで、パラパラと立ち読み。 これはすごい本を見つけちゃったと自分だけに降りてきたluckinessに思えてしまった。会うべくして出会えたというのか.ちょっと言い過ぎなんでしょうけどね。

まず本を読むことに、なにか重要な意義があるのかということについてのことがさらりと書いてあるね。

この本のハードカバー本の表紙を見ると、何かこちらを見て、ニンマリと笑っているのだ.こんな写真出していいのかな、とちょっと引いてしまうのはヘッセのメンツのことを考えてのことだ.彼は決してこんな人ではないはずだ、と 思えたからであったが。まあ、これは横においといてと。

彼はヘッセはやはりすごい読書家であった!

ヘッセの本は何冊か読んだのだが、不思議な話が面白く書いてあって、決して平凡な物語りではないのだ.ただレースのカーテン越しに、見えてしまう本当の姿と言ったような、どこかしら薬臭いかおりのする物語なのである。それはリルケにも同じことが言えるので、結局、中原中也が言っていたように「ドイツ人はやっぱりばかだ」と言うのはこのことかなあ、と思い出したりしていた。ファンタジーがオジャンになる様な事すんなよと言いたいのだよ。

その点やはり巨人ゲーテはちがうんだ.ドイツ人だが、そんな神経質じゃあないし。たとえ神経質でも、それを読者にはみせないプロ魂である。ヘッセは、ゲーテの頃がドイツ文学の黄金期、頂点と言っているが、まさにそういうわけであり、大きな腕で、怖気付いた者をも抱え込んでくれるという偉業を達成しえたと言える。

嬉しかったのはヘッセが、ボードレールを良く評価していた事である.ボドレールは、パリのふきだめのような乞食の暮らしを綴り人生の意味を解読しようとした人であり、リルケもこの筋をひいて同意見に至っている。

ヘッセは本屋で働いていた時期もあり本に親しんでいたのはわかるが、実はヘッセの実家には多くの蔵書が溢れていて、何でもかんでも読み放題という環境にあった様だ。それは祖父の収集した本の山であったという。ヘッセはインドなど東洋の珍しい本、古典、などもさらに集めて読んだ。その結果はシッダールタというブッダの本として成り立ったのではないか。思想系だ。

ヘッセは、ヨーロッパ各国の代表選手のような作家の作品から始まって、これはどうしても無視できないよという本を紹介してゆく。

多くの本を読んだヘッセであった。

この様に、読むということはどういう事かを生活の一部とし、しかも他者に強要するではなく、さも楽しそうに語り続けるヘッセは、饒舌ながら、静かで上品でいかにもヘッセらしく知的な喋り方でもある。それは、自分の著作を含め、成し得てきた行為に対しての自信と、本への確かな感性とがあるからだろう。読んでいくと、、まるで読者が呟いているたことをそのまま作者が書いているような一体感がある。

本を読むのは時間との戦いもあるし、それを耐え忍ぶ根気も必要だ。長編など読んだ時は長かったことを思い出し、それが達成感となって記憶され、忘れられない本になる。内容ももよく覚えているものだ。白痴やら、親和力やら、復活やら、ヘッセのガラス玉遊戯とデーミアン も読んだぞ。多分それくらいしかないが、内容はほぼ覚えている。気になっていた「車輪の下」はずっと後になって読むことになった。とにかく、私の不適応の嵐のために、学校側が薦めてきた本は一応避けるいうことだった。

世間では本離れが進んではいるが、若者に本を無理やり読ませることはやめろとヘッセは言っている.窮屈なやり方で読書を強制するのは本嫌いの原因になってしまうと言う。読書感想文などの宿題のために読む本は、本当になんと退屈で味気のないものだったことか。

本書では古典からだんだんと近づいてくる予感がいい.私は推しであるゲーテの項目を探した。やはり良かった。良い訳者の本が並んでいたからだ。

ゲーテは特に翻訳者によって変わっていくような気がする。  そして まあ、ありとあらゆる東西の作家が次々と現れて来る、その数と勢いには圧倒されつつも、彼の的確すぎる評論には確かなてごたえを感じる。 これはヘッセの遊びであって、のびのびと自分の知識を広げて見せたり、本を飛び石のようにしてぴょんぴょん飛んで見せたりと楽しそうなのが伝わってくるのが共感を呼ぶと思うけど。

下記の本の下の本は1万円を超えていますが私が図書館で手に取ったのはこの本でしたね。