解説文は短いが、古代のアルタミラやらエジプト時代などの絵画などから始まっている.絵柄は顔の向きと体の向きが側面と正面とになっているのにはそれらのもの一番強い印象が脳裏に強く記憶され、例えば獲物などの動物は食料など生きるために必須であったため強く印象付けられ
ており、その部分は正面を向いて描かれたという。.特にギリシャ幾何学文様時代では顔足は側面と、体は正面という、人間の描き方になっており、もっとも影響力の大きな部分が正面になっているのではないか。
この様な細かい研究はともかく、やはり花のルネッサンス期の力強い作品は秀逸である。年代としてはダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロと続き、ダビンチの最後の晩餐は、大きな話題となり長テーブルにずらりと並んだイエスと弟子たちに裏切者のユダも一緒に描かれた事により、今までと一線を画するた新しい絵画として認識された。あの静かな場面の中にユダを探すのは中々に難しいものだ。
画家達は皆 信仰にもとずいて、ある限り真実に迫ろうと必死になっている、といってよいだろう。
後年 ダビンチよりも40年も後に生まれたティントレットという画家が、やはり最後の晩餐を描いたものだが、少し趣向が変わっているのだ.テーブルの前には結構いろいろ雑多な人々がいて動きまわっている。当時のその時を彷彿とさせる自然な状態が描かれている。彼らはイエスらが揃っていることに対して、とても興奮していて、どうしてもてなそうかと動き、考えを巡らせている。中には彼らに無関心な人も混ざっている様に思う.それが自然のことである。大きく、何か叫んでいる様な者もいる。しかもその中にあのユダが混ざって描かれている.彼は嘘をついた裏切り者として、それを押し隠そうと必死な様子であるのが見られる.コレはコレで傑作と言えるだろう。ラファエロの アテナイの学堂(1509年)、教科書にも載る傑作である。一人の男(これも哲人か)が階段に手足を投げ出して崩れそうに座っている。コレらを見ても、いかに人間観察に重点を置き、自己の哲学があり、それによって筆を動かせたという画家の生き様が垣間見られるようだ。ボティチェリの「ヴィーナスの誕生」については、神の創造力と切っても切り離せない作品として最たるものという気がするが、ここには人間界の苦悩というものは描かれておらず、それらは後々の他の画家が背負っていったのである。
もちろん近代絵画もこの本に豊富に含まれてはいるがまずはキュビズムの代表者ブラックとピカソから始まっていく。印象主義を嫌った画家は結構多い様に思う。それからもどんどん続いてゆくのだが、皆さんもよくご存知ものが多い。ところで、やはりセザンヌだけは焼いても煮ても私個人には手強く理解のできないものになっている。小林秀雄の本も読み、今回はこの本を手にしたが、やはり何もわからなかった。
まだモンドリアンの方が理解しやすい。彼はどこかに、自分の絵を理解されるための鍵をこっそりと隠していているが、結構わかりやすいところに隠しているため、素人に見つけられてしまうのだ。
セザンヌのことはとても残念である.どこにその秘密の鍵が隠されている事やら。とても難しい問題となっている。コレは私スッポコ個人の感想である。
逆にゴッホは直情型の熱血漢であり、私にも分かりやすい気がする。
夜の酒場では、黄色と緑に塗られ、よるにも酒に明け暮れる不健全な大人達への警告とも取れる、宣教師の様に生きたゴッホの戒めなのか、と、解説されていた。
画家の絵を評する以前に、我々は画家の性格や生き方などを知っていなければいけないのだろうか。それとも、絵自体が画家の魂を語るものなのか。ボッティチェリ、ラファエロなどの神がかった傑出した名人は、ルネッサンス期に見られたものに限られていて、近代になるにつれて、芸術は苦悩に満ちたものに変わってきた様な気がする。ゴッホについては高階は一冊の本を書いている.「ゴッホの眼」というものだ。
まだ読んではいないが、ゴッホ本人はうまく描こうとは思っていなかっただろう。人の批評も無意味であり、彼はただキャンバスに絵を描く事にまるで取り憑かれた様に絵の具を塗りたくっていったと思えるのだ.彼は良心と共にあった画家と言うこだろう。つまり、絵以上に、彼の魂が評価された特異な画家である.と、コレはほんと個人的意見ですが。