フランス語かと思いきや、ベタベタのイングリッシュであった。アメリカ作品であるので当然だが。この様な古い映画を見たのも、この間亡くなった高階秀爾の本 歴史のなかの女たち というのを読んだからであった。有名すぎるマリーアントワネットというフランス王妃の肖像画では、ばらの花を持って立っている。高階秀爾の本では彼女の生涯がバランスよくかいつまんで書かれていて、彼女は無邪気な15歳という歳で、オーストラリアのハプスブルク家から、フランスのブルボン王朝へとの嫁いできたのだった。その行列は三日三晩続き全体未聞の絢爛豪華なものであり、馬の何百頭が宿ごとにリニューアルされ多くの人々が見物のために並んでいた。
彼女は元々王女らしく素直で、無邪気で温厚な性格だった様だ。 映画でも、気の毒な程無邪気で、周囲の毒々しい企にも気付いておらず、権力を持ったデバリュー夫人らからも舐められている。なんというところへ来てしまったのだろう!しかも夫となる男は、ヘナヘナの王子で、気が弱くて、僕は王様にはなりたくないし、君との結婚も望んでいないのにと、言う.全く威厳のないその姿におどろくマリー。
高価なダイヤモンドの首飾り事件でも、誰かの企みに嵌められた若過ぎるオーストラリア女であった。
彼女は努めて夫を愛し、夫を立てて努めて明るく楽しげに暮らすのだった。娘や息子もやっと授かり、本来ならば最も幸せな人生になるはずであったのだが、運命は全く真反対の胸の悪くなる様な方角へと、つまり奈落の底へと落ちて行くことになる.ちらほらと暴動が起きる様になり、完全に目覚めた民衆が結集し始める.そして一気に熱を持って城へと雪崩れ込んでくる。人間らしく裁判が起こりおおくの裁判官や証人らが、死刑を認める立場をとった。
あの時、気の弱い王子のいう通り結婚すらしなければ死なずに済んだのかもしれない。人間の形式的な行為は大体後に不幸を呼ぶために行われるのだとつくづく思う。又一女性に対して極刑を断ずるのもおかしな話で、フランスの民衆のやり方もものすごく暴力的なものがあると感じる始末だ。搾取される側が、搾取する側を滅ぼした、という話だが、歴史的に見て同じような階級別の戦いに明け暮れている。そうであるなら、
徹底的非暴力で、独立を成し遂げたガンジーなどは別格である。ガンジーにしても多くの味方の民衆が撃たれて数百人犠牲になった悲劇を経験してのことである。
民衆は徒党を組みやすいものなのかもしれない。ナチスでもやはり民衆らヒットラーの下で一つになり、ヒットラーに力を与え大悲劇をうむことになった。
マリーアントワネットの映画としては結構同情せざるを得ない作品となっている。
王と王妃を乗せた町の路地の様な石畳の道を馬車が通る.処刑台のある広場へと。まるで、イエスが捕まって処刑される時の様に。