世の中もう偽物が大手を振ってまかり通る時代と、それを担ぐ若い世代とが手を組んで、もう昭和時代の世代は終わりに近づいた。
ただ、昭和時代では、まだ本物と偽物が見分けられる心を持った人が多くいた。市井の人々も多くはそうだった。
若い世代の子らは、ドンドン自分自身自体が偽物になっていくことに平気であるのだろうか?
その心の奥までは分からない。本当に世代の分かれ目は、いつ来たのか、潮目の変わり目はいつ来たのか。5年ごとに変わってゆく登校中の中学生たちを毎日見送ってきたが、世代交代ごとに、雰囲気が変わっているのに気がつく。挨拶をする学年と、まったく無視の学年とにわかれている。腕を上げて襲ってくる学生もいた。
私は若者が怖いので、いつも挨拶はせずに、木陰や物陰に隠れてしまう。彼らに関わるのが怖い。
ガン付けられてもイヤですからね。
何かとても危険で、微風でも落ちてしまう花柄のようなすれすれの仲間意識で繋がって やっと生きている人類史上とてもハードでとんがった世界が今あるように思う。
さて件のリンゴは一見美しく輝いて見える。ラッカーが赤々と塗られていて、ニセモノの輝きがある。
偽かどうかは、「誰か」が判断するのだ。だが、毒林檎のようにコレは食べられない。齧れば、歯が折れたり、ペンキがついて、大失敗の結末が待っている。食えない話である。
単純でしかも宝石にも喩えられる真っ赤なリンゴは、今や、猿も食べない哀しい果物となった。
R.stonesの曲に、彼女はラッカーの海で助けてと叫んでいる。という歌詞がある。ペンキの海に落ちたら、そりゃ怖いぜ。
公害だわね。
ヨーコオノがよく、リンゴを使ったパーフォーマンスやらをやっていた。この一個のリンゴ腐るまで見守っとれ。と言うようなものである。また、空の雲を入れる為の穴を庭に掘れ、と言うのもあった。現在はアルツハイマーで要介護らしいが、本当と嘘が入り混じった経歴しか伝わってこないので、今でも矢張りヴェールに囲まれていると思う。
ただ、その生のリンゴは本物であり、偽物の腐らないフルーツではなかった。
だが、今や、本物は投げ捨てられ、偽物がその地位のついた時代になった。
まさに生りんごは🍎過去の時代のものになってしまった。
彼女の本はまず「グレープフルーツ・ジュース」からはじまって、後年に急いで?書かれた数冊の本がある。
彼女の歌は段々と厳しい人生の悲しみや苦痛といったテーマになってゆく。マルテがパリで暮らして
悲しみに打ちひしがれた人々を見守ったように、何不自由のない身分でありながら、やはりニンゲンは生死を持つ生命体ということでわずかにも平等だ。