1965年版の自伝を著作権なんちゃらによって、2020年版にして出した本。
先ず、1ページめから、泥水を飲むような人生と書いた。ただその頃の道頓堀は水清く、澄んでいたという。
8歳でおちょやんとして弁当屋の下働き、それは大人でも音を上げるようなきつい仕事の連続の始まりだったのだ。
毎朝一人で7斗、8斗の米をたくのだが、幼かった彼女は、人生とはこんなものだとおもい、寝るところと、着物と、ご飯が与えられるので生きるためには必死で働いたそうである
何度も父親に売られてそうになって逃げたのは京都でしたー美しいと聞く京都とはどんなところかと期待で一杯ー。職安で、年齢を言うと、誰も信じてくれず、困った彼女は19歳になっていました。とても年上に見えたそうです。
でも友人が劇団に応募してくれて、うまく劇団員になれました。しかし、映画監督に誘われて映画会社に入った彼女、色々な人たちとの出会いがあって、渋谷天外一座に入った。
そのうちに、映画監督から声がかかり夫婦善哉、山椒太夫、近松物語、宮本武蔵、大河太閤記など、主役ではないが、無くてはならない役者となった。
いろいろな映画会社も、出来たり消えたりの時代の中、松竹の劇団に、入団して、そこで、
因縁の夫、渋谷天外と結婚。これがさあ、なかなかの曲者で、幸せなど微塵もない、地獄のような結婚生活を20年。天外に女ができて、子供が生まれると言うことで、別れたそうである。
彼女の傷ついた心を癒すには、それ相当の時間と、質のよい仕事が必要であった。
真っ直ぐで、ごまかしやへつらいの嫌いな浪花は、ペチャンコになっていた。
その時に出会ったアチャコの公開ラジオドラマで、人気が出て、なんとか心は救われてきた。彼女をを知らぬ人はいないと言うほどの大人気で、実力も認められた。
彼女は常に謙虚に出て、泥水から咲いた花のような無学な教養のない自分というものをなぜか大切に内にじっと秘めていた。
幸運なことに、色々な映画や、ドラマからも声が多くかかってきた。本当の実力を試される時であった。
千栄子の死後、天外は、ほざいた。千栄子は、誰にも自分の芸を譲らなかった、と。だから芸も、彼女と一緒に死んだ、と。
だが、芸とは、そういうものだろうかー人の心に刻まれた記憶は、なかなか消えないものだが。
今、また彼女の骨格のハッキリとした芸が見直され、もう一度見たいと、古い映画を探ったりしている人も多い事だろう。
何が、引きつけるのかは分からないが、彼女の演じた役と映画が、とても見たいこの頃である。